『日本・1945年の視点』三輪公忠著ー再読 第5章地域的普遍主義から地球的普遍主義へ

本棚に戻さずによかった。8月15日に『日本・1945年の視点』にある、解放か?侵略か?を議論した「第5章地域的普遍主義から地球的普遍主義へ」を読めたことは幸運だった。

この章は以下の4節から構成される。

1 地政学の援用

2 戦後秩序への提言 ー 「大東亜共同宣言

3 「大東亜戦争」の両義性

4 脱国家的思想の戦前と戦後

 

この章は以前も読んでいたようで下線が多く引かれてている。今は、波多野澄雄氏の大東共同宣言の研究を読んでいるので以前よりわかるような気がする。

やはり「大西洋憲章」に対抗するものとして書かれた重光の「大東亜共同宣言」は重要なのである。「大西洋憲章」の植民地制度の従属性を否定する「大東亜共同宣言」は、戦後国連での資源政策NEIOや、西洋文明優越説を否定する開発概念が含まれている。

しかし、日本軍が現地でおこなった「侵略」「残虐性」は否定できないのだ。三輪はこれを、スペイン、米国の影響を強く受けたフィリピン人から見下された、日本の農家出身の純朴な青年軍人が反発した話と、ミャンマー軍を日本軍が解放させた話を対比して理解しようと試みる。

「解放」のはずが「侵略」になった責任は3節の「大東亜戦争」の両義性、に詳しいが、三輪は政策決定者にあった、と断言する。私はそれが誰かを今ははっきりと言える。新渡戸、矢内原が緻密に構築して来た植民論を否定した近衛文麿のブレインだった蠟山政道だ。蠟山はドイツ地政学の影響を受け「生命線」という侵略思考の言葉を使い始めたのである。

三輪議論は最後に大東亜共栄圏思想が世界連邦運動に発展することまで言及。これが大東亜国際法を作成した安井郁がチェチェ思想の指導者となって行くことと重なるように思えるのだ。

 

玉音放送の一節一節を吟味したことはない。あの「耐え難きを耐え」があまりにも有名になってしまったからだ。しかしここに日本が犯した侵略性への批判が明確にされているのである。

以下はウィキより。

現代語読み

先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。

読み下し

先に米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず

原文

曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

 

『日本・1945年の視点』三輪公忠著ー再読 4章アジア新秩序の理念と現実

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矢野仁一と内藤湖南 

 

三輪公忠氏のこの本と同時に後藤新平の大亜細亜主義の論文を読んでいる。あれこれ読みたい資料が出てきて収拾がつかなくなり、今4、5点を同時に読んでいるのだが、いっしょでよかった。同じ事が書かれているのだ。

後藤新平亜細亜主義が収まった「日本植民政策一班」は大正10年に発行されている。その同じ年(1921年12月25、26日、大阪朝日新聞支那無国境論)に京都帝国大学矢野仁一教授による中国非国論・無国境論が発表されている。矢野教授は日本の有数のシナ研究者。ここで無国境論、非国論の詳細は省くが、これが満州国建設の理論的根拠になったという。

同じ京大教授の内藤湖南も1914年の『支那論』1938年の『新支那論』で中国がナショナリズムが欠落している事を指摘。

この両名の支那論を読めば、現在の一帯一路、China Dreamのイデオロギー、思想的背景が理解できるかもしれない。

この矢野、内藤の支那論に後藤も影響を受けていたのであろうし、日本の中国認識があったのかもしれない。そこに黄禍論を導く白禍である。19世紀の欧米の植民地支配に苦しめられたアジア諸国が共に手を取り合って白禍に対抗する。日本はその盟主的役割をもっている。。

しかし1924年11月神戸で行われた孫文の「大アジア主義演説」を日本人は見事に誤解する。孫文は中ソの協力を主張したにもかかわらず、玄洋社を中心とする日本人は日中友好と捉えたのだ。なぜそんな誤解が生まれるのであろうか?そしてこの誤解はこのまま「大東亜共栄圏」に発展していく様子が描かれている。三輪はそれを「大国となった日本の奢り」と指摘する。

さらに陸軍の皇道主義に発展する詳細が描かれ、日本の古典に再出発点を見つけたと三輪は結んでいるのだがこの皇道主義は、葦津珍彦が指摘してきたファナティックでショービニスティックな神道だったのではないだろうか?

yashinominews.hatenablog.com

 

後藤新平の大亜細亜主義(2)

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英国の香港統治を台湾統治に模倣した後藤新平は国際主義者のように思っていたが、下記の文を読むと強硬な”排他的”アジア主義である事がわかる。伊藤博文が反対した理由もわかる。後藤は蘭学を学んでいたが、同時に中国からも多くを学んでいたはずだ。というか日本の学問や思想の中心は中国のそれであったのではないだろうか? 

後藤の中国認識が興味深い。4600年の歴史の中で28、9回革命が、すなわち易姓革命があり、その指導者は南、北から入れ替わり立ち替わりだったが、アジア州の人で、欧州人の統治はなかった、と。アジア州の中でも争いがあったがそれを超えて今があり、その文化は欧米とは全く異なっており、欧米とは意思の乖離があり、それは争闘の原因にもなる、と。

しかし現実は、意思の乖離と争闘が日本と中国・韓国の間に起こったのではないだろうか?

 

以下、後藤新平「日本植民政策一班」付録「大亜細亜主義」を後藤新平記念館の学芸員の方達が書き起こし、漢字の説明をつけてくださいました。

 

およそアジアに国する者、その数鮮なからず、政体異同あり、人種宗教また岐異する所無きにあらず、しかれどもその大アジア主義におけるや、なおこれ日月に対し而して齊しくその光明を仰ぐごときのみ、中国黄帝より以来四千六百余年、革命二十八九次を累ぬ、その間政柄を執る者、時に南人有りまた北族あり、ついに未だアジア洲以外の人の入って而して国の鈎を秉る者あらず、是れ豈これを致す莫くして而して致す者ならんや、方今文化遂に進み、列国互いに競うて福利を増進し、武力を濫用して他の洲土を侵奪するものあるなし、然りといえども此れ長く恃むべからざるなり、優勝劣敗は天演通例、弱肉強食は古今一揆、何ぞ稍や自ら暇逸すべけんや、且つアジア諸邦の文化、欧美列国に遜ること遠し文化の懸隔は即ち意思の乖離なり、意思の乖離は即ち争闘の肇端なり、

 

異同…違っている点。

岐異…まちまち。

日月…太陽と月。また太陽のこと。

政柄…政権。

鈎…L型の物を引っ掛ける金具。深いところにあるものを引っ掛けるようにして取り出す。物事の道理を探る。

日本では、「はり」「釣り針」の意。

秉る…手に持つ。しっかりと持って守る。手に握った権力。

豈…「あに~(なら)んや」 どうして~であろうか(まさかそんなことはあるまい)

方今…いま。現在。

恃む…何かをあてにする。

天演…進化。 通例…慣例。

古今…昔から今にいたるまで。

一揆…揆は法則。道を同じくすること。

稍…だんだん。少しずつ。わずか。しばらく。

暇逸…暇で遊んでいる。

懸隔…へだたり。

乖離…違っていて合わない。

肇端…発端。

『日本・1945年の視点』三輪公忠著ー再読 3章 大正の青年と明治神宮の杜

三輪公忠氏はウィキを見ると国際政治学者とある。

『日本・1945年の視点』は多くの視点、多くの事件が書かれており学術論文といより雑文(雑な文章という意味ではない)随筆的な内容だ。

 

3章 大正の青年と明治神宮の杜

も面白いがあまりにも多くん情報が集まっている。最初に日本のファシズムとナチのアブノーマル性を議論した丸山真男を引用し、日本の特徴を描こうとしている。

次に平泉澄を引用し、天皇と結びつけて一般の、三輪氏はそう書いていないがプロレタリアートが暗殺者、狂信者になって行くことが書かれている。

3節「明治神宮の造営と大日本青年館」が、前回読んだ時強く印象に残った箇所だ。新渡戸が出てくる。ここで一君万民の平等思想が紹介される。平民が政治指導者になっていくのだ。3年以上かかった外苑工事には全国から5千人以上の青年が集まって、酷使され死者も出たという。しかしこの青年たちが連盟脱退から帰国した松岡洋右を全国津々浦々で熱狂的に迎えるのだ。昭和軍国主義の担い手となる青年プロレタリアート集結地「大日本青年館」が1921年に建設される。ここの初代理事長が近衛文麿だ。1931年には新渡戸を委員長に迎え、蠟山、後藤隆之介、東畑精一を委員とする、農村問題研究会が発足し、この青年館に事務局を置く。新渡戸が1933年カナダで帰らぬ人となったころ、この農村問題研究会が昭和研究会に化けるのである。

色々と書いてあるのだが、最後に近衛文麿のこと。

彼の父親篤麿はドイツ留学の帰途アジアを周り、西洋人から差別されているアジア人をみて、アジア人による東洋の建設、大アジア主義という思想をもった。その篤麿は文麿が12の時になくなり玄洋社の頭山たちが文麿とその兄弟の面倒を見る。ここで文麿は玄洋社の思想、イデオロギーにも触れるのであろう。玄洋社広田弘毅、壮士風ポーズを好む松岡洋右を登用したという。

玄洋社と新渡戸のつながりはまだ確認していない。ないかもしれない。しかし後藤新平玄洋社は深く繋がっている。しかし、後藤の思想やイデオロギー玄洋社のそれは全く違うような気がするのだ。後藤のは科学的であり、玄洋社は情念的。そんなイメージを持っている。

 

近衛文麿、蠟山、後藤隆之介 ー みんな新渡戸稲造の一高での教え子である。新渡戸は評価していなかったようだ。

後藤新平の大亜細亜主義(1)

テキスト ボックス: 極垠…極限。かぎり。はて。
畛域…範囲または境界。分別。
康楽…安らかに楽しむ。
涘…流れの止まる水際。
索居…ひとり寂しく暮らす。
洲土…その洲の地。 
民人…一般の人々。
機枢…物事の重要なところ。かなめ。
貪覬…むさぼり望む。
神権…神の権威。絶対王政の観念。
異同…違っている点。
岐異…まちまち。
日月…太陽と月。また太陽のこと。
政柄…政権。
鈎…L型の物を引っ掛ける金具。深いところにあるものを引っ掛けるようにして取り出す。物事の道理を探る。
日本では、「はり」「釣り針」の意。
秉る…手に持つ。しっかりと持って守る。手に握った権力。
豈…「あに~(なら)んや」
どうして~であろうか
(まさかそんなことはあるまい)
方今…いま。現在。

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水沢の後藤記念館とイケメン新平


インド太平洋構想のルーツに亜細亜主義があるのではと、ハウスホーファー玄洋社を読んでみたがよくわからなかった。後藤新平伊藤博文に広島の宮島で大亜細亜主義を語っているのは後藤の「厳島夜話」で知った。
何度か読んでいる後藤の「日本植民政策一班」の付録に4ページほどの「大亜細亜主義」があるのを最近知って、読んだが、漢字がわからず。
誰か現代語訳してませんか?と聞きまわったら、後藤の郷里、奥州水沢の後藤新平記念館の方がなんと整理してくださった。
ルビをふってくださっておりそのままこぴぺできなので、外した形で少しづつ紹介したい。
なお「日本植民政策一班」は大正3年に講演した内容を整理し、大正10年に拓植新報社から発行されている。本来であれば後藤を師と仰いだ李登輝研究者とかが専門的に取り上げる内容のはずだが、誰も、この文章の存在さえ知られていないようなので、この分野素人ではあるがご紹介したい。間違い、勘違い、思い違いは遠慮なくご指摘ください。なおエビデンスは必須です。エビデンスなき指摘はお断りします。
 
 「大亜細亜主義
人生の福祉は国土の能く井画する所にあらず、人種の能く極垠する所にあらず、文化畛域無く、康楽際涘無し、生れて大地に生じ、五洲に索居するもの、固より応さにこれを共同享受すべきなり、独り洲土の民人あり、唯当さにこれを保持すべし、而して以て諸れを他州人に譲るべからざる者は州土の機枢これなり、アジア洲はアジア洲人のアジア洲なり、アジア洲中の機枢はすべからくアジア州人に由てこれを主宰すべく、必ずアジア洲外の国をして貪覬する所あらしむべからず、是れ之を大アジア主義といい、実にアジア洲人万世不滅の神権となすなり、

極垠…極限。かぎり。はて。

畛域…範囲または境界。分別。

康楽…安らかに楽しむ。

涘…流れの止まる水際。

索居…ひとり寂しく暮らす。

洲土…その洲の地。 

民人…一般の人々。

機枢…物事の重要なところ。かなめ。

貪覬…むさぼり望む。

神権…神の権威。絶対王政の観念。

 

漢字の解説も後藤記念館のみなさんの作業です。難しい。解説なんかできない。

ただし次の箇所は後藤の植民政策をよく知ることができる箇所である。後藤は台湾統治に関して、英国の香港統治を模倣したのである。その香港統治とは現地の文化歴史人材を育てることである。(どこで読んだか忘れた。多分この植民政策一班だと思うが後で確認)

貪覬…アジア州以外の国がむさぼり望むことを後藤は断固否定していたのだ。しかしそれは排外的ではなかったはずだが、厳島夜話では伊藤公が西洋列強の感情を逆撫でするものと否定している。

アジア洲はアジア洲人のアジア洲なり、アジア洲中の機枢はすべからくアジア州人に由てこれを主宰すべく、必ずアジア洲外の国をして貪覬する所あらしむべからず、」

 

 

 

『日本・1945年の視点』三輪公忠著ー再読

私が三輪公忠氏の著書に出会ったのは新渡戸にのめり込んだ頃で、上記のブログにあるように北岡伸一氏のトンデモ本を読んで頭から煙を出していた時だ。

『日本・1945年の視点』には新渡戸と矢内原のことも結構書かれていて、購入を決意した。いくつか感想文をブログに書いているが、今回の本の執筆で三国同盟と軍部の南進のことを少し触れたかったので本棚から取り出した。

今、再読したいと思っている本だけが本棚に残っているが、老婆となった今、再読する前にボケたり、死んじゃったりするかもしれない。本棚に戻す前に『日本・1945年の視点』を再読することとした。

本の構成は以下の通り。

1章 1945年の視点

2章 戦争と国民国家の形成

3章 大正の青年と明治神宮の杜

4章 アジア新秩序の理念と現実

5章 地域的普遍主義から地球的普遍主義へ

6章 国家の連続性と占領協力

 

1986年に出版された本が2014新装版として再販されている。それだけ人気があるのであろう。

色々なところに書かれたものをまとめたのだと思う。であれば70−80年という冷戦真っ盛りでまだ左翼的な言論が主流のころ。読み返すと特に日韓併合など左っぽい表現が多いが、それは当たり前なのかもしれない。

1章にある三国同盟の話を今回の本で紹介した。

2章に新渡戸の植民政策講義の事が書かれているが、日韓併合を2時間以上にわたり新渡戸が伊藤公に説得した話はご存知ないようだが、日韓併合の時期にまさに新渡戸が東京帝国大学で植民政策論講義をしていた事が指摘されており、日韓併合に触れていないはずない、と書かれている。それにもかかわらず、戦争が始まって弟子の矢内原が必死で出版した新渡戸の植民政策講座の本には韓国が一切出てこないのである。

三輪氏は別のところで、矢内原が戦後に新渡戸の発言を改竄していることを指摘している。

一つ気になっているのが、矢内原が死ぬ間際に「俺は偽善者だった」と奥さんに悔いていることだ。どこで読んだか忘れてしまったのだが。矢内原も日韓併合を支持していたはずだ。それが軍国主義の中でねじ曲がってしまった。その軍国主義が生まれた原因も矢内原は議論しており、資本主義の結果、だという。すなわち競争にまけたプロレタリアートが軍人となり財閥と手を組んでいく。そういう議論だったはずだがこれも再読したい。

後藤・新渡戸を師と仰いだ台湾の李登輝元総統

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私の新渡戸・後藤との出会いは、本格的には矢内原の『南洋群島の研究』をきっかけにした植民論であるが、それ以前も李登輝氏の本で知ったことにある。

その李登輝氏を知ったのはベストセラーとなった『戦争論』で「え?日本悪くなかったの?」と気づかせてくれた”よしりん”こと小林よしのり氏の本であった。

2017年一つ目の博論を書き終えた後、本棚3つ分位の本を処分し、そこに入れたか気になっていたが、一冊だけあった。

2001年発行の写真の本である。そして一気に読み終えた。小林氏が若い人向けに読みやすく書いているのだ。そこに書かれていることは全てそのまま今にも当てはまることだ。

そして2006年李登輝氏が東北を訪ねた意味も今ならわかる。李登輝氏が師と仰いだ後藤新平新渡戸稲造に会いに行ったのである。台湾と李登輝氏の始まりが日本の東北、北上川沿いにある。

李登輝氏が台湾で進めた民主化の背後に後藤と新渡戸を感じることもできる。

昨年後藤の誕生の地、水沢を訪ねた時、後藤記念館により、後藤新平顕正会とい会に入った。後藤の大アジア主義の短い論文に関して、記念館の学芸員の方たちとこの数週間やりとりしてたところであった。

水沢の後藤記念館では李登輝氏を追悼する企画展が準備されているという。

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