『日本・1945年の視点』三輪公忠著ー再読 3章 大正の青年と明治神宮の杜

三輪公忠氏はウィキを見ると国際政治学者とある。

『日本・1945年の視点』は多くの視点、多くの事件が書かれており学術論文といより雑文(雑な文章という意味ではない)随筆的な内容だ。

 

3章 大正の青年と明治神宮の杜

も面白いがあまりにも多くん情報が集まっている。最初に日本のファシズムとナチのアブノーマル性を議論した丸山真男を引用し、日本の特徴を描こうとしている。

次に平泉澄を引用し、天皇と結びつけて一般の、三輪氏はそう書いていないがプロレタリアートが暗殺者、狂信者になって行くことが書かれている。

3節「明治神宮の造営と大日本青年館」が、前回読んだ時強く印象に残った箇所だ。新渡戸が出てくる。ここで一君万民の平等思想が紹介される。平民が政治指導者になっていくのだ。3年以上かかった外苑工事には全国から5千人以上の青年が集まって、酷使され死者も出たという。しかしこの青年たちが連盟脱退から帰国した松岡洋右を全国津々浦々で熱狂的に迎えるのだ。昭和軍国主義の担い手となる青年プロレタリアート集結地「大日本青年館」が1921年に建設される。ここの初代理事長が近衛文麿だ。1931年には新渡戸を委員長に迎え、蠟山、後藤隆之介、東畑精一を委員とする、農村問題研究会が発足し、この青年館に事務局を置く。新渡戸が1933年カナダで帰らぬ人となったころ、この農村問題研究会が昭和研究会に化けるのである。

色々と書いてあるのだが、最後に近衛文麿のこと。

彼の父親篤麿はドイツ留学の帰途アジアを周り、西洋人から差別されているアジア人をみて、アジア人による東洋の建設、大アジア主義という思想をもった。その篤麿は文麿が12の時になくなり玄洋社の頭山たちが文麿とその兄弟の面倒を見る。ここで文麿は玄洋社の思想、イデオロギーにも触れるのであろう。玄洋社広田弘毅、壮士風ポーズを好む松岡洋右を登用したという。

玄洋社と新渡戸のつながりはまだ確認していない。ないかもしれない。しかし後藤新平玄洋社は深く繋がっている。しかし、後藤の思想やイデオロギー玄洋社のそれは全く違うような気がするのだ。後藤のは科学的であり、玄洋社は情念的。そんなイメージを持っている。

 

近衛文麿、蠟山、後藤隆之介 ー みんな新渡戸稲造の一高での教え子である。新渡戸は評価していなかったようだ。