後藤新平の大亜細亜主義(4)

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矢野仁一の「中国非国論」と後藤新平の「大亜細亜主義」その中国認識は同じだったのでは?


後藤新平の大亜細亜主義。短い論文だが難しいし奥が深い。中国問題ど素人の私はわからない。水沢の後藤記念館の皆さんがせっかく原稿を打ち直し、漢字も調べていただいたのに。。先行研究は皆無なのだろうか?なんせこの後藤の大アジア主義伊藤博文を暗殺者の待つハルビン(1909年10月26日)に向かわせるきっかけでもあったのだ。

後藤の大亜細亜主義が掲載されている「日本植民政策一班」は大正10年1921年に発行されている。後藤が伊藤に大亜細亜主義とロシアとの交渉を広島の宮島でもちかけたのが1907年、明治40年9月29日。新渡戸が伊藤公に朝鮮併合を2時間に渡り説得したのもこの頃だ。

さて、後藤の短い大亜細亜主義を5つに分けて読み込んで解説してみようと思ったがそんな能力はなく挫折している。それでも意地で書いてみれば、国を治めるのは「法」でなく「人」である。中国は米国の連邦制とかフランスの共和制など法的枠組ではない。しかしこのままでいればアジアは亡滅しアジア人は膾となる、と。

この大亜細亜主義が収められている「日本植民政策一班」が出版された1921年は京大の矢野仁一が「中国非国論」出した年でのある。矢野も米国の国体と中国は全く違うと書いているので、後藤・矢野の交流はあったのではないだろうか?

 

 

吾がアジア洲人の大アジア主義における、亦当さに是の如くなるべし、中国制を美国に仿い共和政体を創立す、人皆前途の幸福測るべからずと謂う、然れども治乱人に在り法に在らず、当年善制良法と為すもの後年弊竇たり乱階たるもの世常に多し、西土富強の道たる所以未だ必ずしも東邦の良謨たらず、故に中国政体の如き、果して政党の発達、美国の如く、法国の如きを得る乎、雋傑の崛起し共和は或いは岐れて各省分立為る無らん乎、或いは変じて連邦共立たる無らん乎、是れ亦未だ逆め賭けるべからず、但其共和たり分立たり連邦たるも、均しく是れ洲内の小紛擾に過ぎず、而して未だ全亜の機枢を傷くるに至らず、即ち未だ深く意と為すに足らざるなり、若し夫れアジア人アジアの機枢を把持する能わざるの日あらん乎、是れ真にアジア亡滅の時なり、洲中の諸国其土を保つ能わず、国中の民人其生を治むる能わず、国挙て焦土となり人皆魚膾となる、

 

治乱世の中の治まることと乱れること。

善制良い政治。

弊竇弊害のある点。

乱階乱が起こるきっかけ。

西土中国・インド・西洋のこと。

良謨良いはかりごと、計画。

雋傑普通の人よりも才能や人格が優れた人。

崛起むっくりと起き上がる。

小紛小さな争い。

ずるずるとかき回す。邪魔する。

魚膾魚のなます。