新渡戸を知らずに新渡戸を語るなかれ

まさか、稲村公望さんが、新渡戸を読まずに思い込みで文章を書くとは思わなかった。 「日本を滅ぼすのは軍閥か共産党」と言って日本にも米国にも誤解されたまま客死した新渡戸は90年近く経っても誤解されたまま。 稲村公望さんはもう文章を読む気力はないと逃げる。ならば書くな、と言いたい。 批判するだけは私の流儀ではないのでこのブログ立ち上げました。

『新渡戸と朝鮮半島』田中慎一 <読書メモ>

「閣下がビスマークにお会ひの時に内地植民の計画についてお聞きではありませんですか。必ずお聞きになったことと私は存じます。...」

「...社会政策上ドイツでは、一つの誇りとしてをる方針である。且つまた歴史に今までなかった試験をしたことで、これに類したことはすでにローマ時代にやってをりましたが、新しい方法を持つての計画に、しかも平和的に一民族を他の民族の中に移植する設計は、政治家の研究する価値の確にあるものと思ひます。...」

 新渡戸稲造日韓併合に大きく関わっていた事を、「偉人群像」の「伊藤公」で知った。新渡戸は韓国植民のために、現地に赴き、総督だった伊藤博文に面会し、プロシャの、ビスマークの内国植民について講釈をしたのである。そしてこの内国植民については以前ブログで連載した高岡熊雄博士が詳しい事も他の資料でわかった。高岡は、後藤新平新渡戸稲造と共にドイツの内国植民の現地を視察している。

 

 現在の日韓関係を新渡戸が知ったらなんと言うか?

 新渡戸研究の中でも、その植民政策に関する質の高い研究は少ないように思う。その中で安心して、即ち理論的議論展開をしているのが北海道大学の田中慎一教授の論文である。別件の調べ物で「季刊三千里」という雑誌をめくっていたら、新渡戸に関する田中論文があった。いつか読みたいと思いつつ放っておいた。

 まずは新渡戸の略歴と植民学者とのしての横顔が端的にまとめられている。そして台湾総督府官吏としての詳細に移り、ここで新渡戸が後藤、児玉だけでなく多くの高級軍人、植民地行政官僚とのコネクションを得ていく。

 この日本の植民政策学の始祖、新渡戸の朝鮮との関係が語られてこ来なかった理由が2つ書かれている。それは戦後、弟子の同じく植民政策学者、矢内原の改竄であった。矢内原は日韓併合の時の新渡戸の演説を記録しているのだが、戦後の同じ文章からはその部分をごっそり削除したのだ。

 2つ目の理由がどの資料にも1906年10月9日の新渡戸の渡韓が書かれていない事をあげている。さらに新渡戸渡韓の関連文章が紹介され、新渡戸の韓国植民の強い意志を確認している。

 新渡戸が亡くなる1933年5月に新渡戸は渡韓している。田中氏は最後に新渡戸が植民地朝鮮を科学的批評をしなかった事を、日本の自由主義の父の限界、と論じている。私はこの部分はわからない。新渡戸が植民地朝鮮をどのように観察していたか?日韓併合から1921年ジュネーブの連盟事務局次長になるまでの約10年、新渡戸が植民地朝鮮をどのように関与、観察していたのか?その任務は東大の植民政策学を引き継いだ弟子の矢内原に依頼し、期待したはずだ。

 

新渡戸稲造の農政思想と『武士道』清水徹朗ー読書メモ

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新渡戸が日韓併合に大きく影響した事に関する、北海道大学の田中慎一教授のペーパーをまとめようと思ったのですが、ウェブ検索で農林中金総合研究所、清水徹朗氏が書かれた「新渡戸稲造の農政思想と『武士道』」を見つけ、興味深かったので先にブログに上げておきます。

https://jshet.net/wp-content/uploads/2019/02/2019_2_2_7_shimizu.pdf

 

「しかし、新渡戸の思想や言動に時代の制約があったことは否定できず、『武士道』も、単に肯 定的に評価するだけではなく、軍国主義との関係も含め再検討する必要があり、植民思想に関 しても、朝鮮半島日中関係が揺れ動いている今日改めて研究する意義があるだろう。」

 と結ぶこの論文は、『武士道』と同じ頃に書かれた『農業本論』の方が重要なのに難解さもあってあまり読まれていない、という当方と同じ意識を持って書かれています。

新渡戸といえば武士道。この偏見を打ち壊すことがこのブログの目的でもあります。

 

柳田國男は新渡戸の「地方学(ヂカタと読む)」から強い影響を受けて民俗学に進んだが、科学性を否定し、ジュネーブ国際連盟で新渡戸と決裂。しかし柳田は終生新渡戸の背中を見ていたことは以前書きました。

マルクス経済学者、河上肇も新渡戸の『農業本論』から強い影響を受けていた事は知りませんでした。京都左京区に住み、法然院にお墓がある事も。。今度お参りに行ってみます。

 

新渡戸は武士道が日本の道徳の基盤としてあることを英語で世界に広めた人物。しかし多くの関係者、門人が、新渡戸の考えを曲解してきたし、今でもしているのでしょう。

清水氏は、東京大学学長井上哲次郎が新渡戸の武士道を否定する形で『武士道叢書』を編集、 山鹿素行中江藤樹吉田松陰など江戸期の思想家の武士道論を示し、これが国体の本義に引用され、軍国主義に繋がったとあります。

2019年9月、吉野作造の勉強会参加への道、東北を訪ね、後藤と新渡戸の足跡を辿りました。花巻の新渡戸博物館には、新渡戸の祖父傳が開拓した水路の詳細が展示されています。これが新渡戸稲造の農業開拓、すなわち植民政策の哲学にある事を確信することができました。

中島岳志著『アジア主義』ー読書メモ

公私にわたり團家との関わりが多少あった時期があった。血盟団事件は最初関心がなかったのだが急に知りたくなって中島岳志さんの本を読んだ記憶がある。

その書きぶりからてっきりジャーナリストだと思っていたが、中島氏は学者さんであった。『アジア主義』という本も出されておりキンドルで購入。この数日斜め読みさせていただいた。

はっきり言うとガッカリだった。学者の記述であれば、と期待していたし、2017年から私自身がインド太平洋構想に関わるようになって「アジア主義」関連文献も色々と読み漁ってきたからだ。

それでも、三輪公忠氏が書いているが「黄禍」を導いた「白禍」論の詳細を知る事ができた。単純なまでの西洋批判、西洋嫌いの様子がわかる。それはソロモン諸島の君主が未だにエリザベス女王であることを「酷い」「英国の押しけ」と信じているマジョリティの日本人の思考に残っているのではないだろうか。

玄洋社を中心としたアジア主義の詳細が書かれていて、そこに日本人の「白禍」論がどのように展開されたかを窺い知ることができる。他方少しでも国際社会を知っていればこんな認識は持たないのではとも思った。もちかして国際協調主義の新渡戸や矢内原はこのような反西洋の動きに学術的な反論を試みたのはないかと思った。玄洋社と安場保和を通じてつながりのある後藤新平も2度ほど脇役で本の中に出てくるが後藤のアジア主義の議論は取り上げられていない。中島氏は後藤新平アジア主義を知らないのか、もしくはわざと外したのだろうか?

もちろん西洋の植民によって搾取されたり殺戮された地域もあるが、スパイシーアイランドのモルッカ諸島の小さな島、ティドレのサルタンがオランダを利用してパプアまで勢力範囲を広げた話を拙著『インド太平洋開拓史』に書いたが、植民される側もしたたかに西洋人たちの植民を利用したケースがあるし、西洋の植民がなかった時が平和で幸福な生活を送れていたわけではない。これも拙著にフィジーの例を書いた。

中島岳志著『アジア主義』には帝国主義、植民主義等々の言葉が出てくるが一切定義が議論されていないのだ。誰もしないのであればいつか自分が書きたい、と思うようになった。

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スパイシーアイランドと英国のスパイ活動をめぐる話が書かれています。

 

新渡戸の武士道

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イケメン後藤には敵わないが新渡戸もハンサムだった

新渡戸といえば「武士道」。

そう言われと、新渡戸研究者や私のような新渡戸愛好者は違和感を感じるのではないだろうか?「わかっちゃあねえな」と。

そもそも「武士道」は英語で書かれ、新渡戸の妻のメアリーさんに日本文化や習慣を説明しながら外国人のために書かれた日本紹介本なのである。以前日本の道徳教育はどうなっているのかと高名な法学者に聞かれ答えられなかった反省を込めて出版されたのだ。なので葉隠というような武士道の議論とは違う。多分。

この事を林信吾氏が(作家・ジャーナリスト)的確にまとめている記事を見つけた。林氏はこの武士道はあまり高く評価せず、『ガイジンでも分かるニッポン文化』である、と切り捨てる。私はそこまで批判的ではないが新渡戸の作品の中では中の下くらいの位置付けである。

林氏はさらに武士道を書いた新渡戸は「昭和の軍国主義の時代には世間やマスコミから酷い仕打ちを受けた」ことも指摘。昭和の軍国主義も戦後の保守右翼も新渡戸の「武士道」にある道徳観や正義感からは遠い存在なのである。

『武士道』著者が受けた仕打ち 横行する「危うい正義」その3 (1/2)

 

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新渡戸の武士道を批判した人が他にもいる。草津温泉図書館でベルツの本をめくっていたらあったのだ。閉館のベルが鳴ったので、慌ててそこだけ写メしておいた。『ベルツ日本文化論集』だったはずだ。武士道の理念は中国に由来する封建制であり、封建制神道的な天皇制とは相入れない、とベルツは書く。サムライ精神が花開いた時、天皇権力は衰退したと。

 

ところで日本人の道徳心、倫理観、情緒を説明できるのは「武士道」だけなのだろうか?私はそれは童話とか民謡にあるように思う。花咲か爺さん、桃太郎、鶴の恩返し・・・子供達はそのような話を繰り返し聞かされ、道徳を学ぶのではないだろうか?新渡戸は民話の研究もしている。もし新渡戸が民話を用いて日本の道徳教育を英語で紹介していたら、日本の歴史は違っていたかもしれない。。

矢内原の満州・大陸政策小論5本

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矢内原忠雄全集第5巻の「論文(下)」には6本の南洋に関する小論が収められている。これをきちんと読もうと本を再度開いのだが、その6本の論文の前に5本の満州と大陸に関する小論が収められている。中国のことも満州のこともわからないから読まないでいたが、緒方貞子さんの満州事変の論文や、後藤新平アジア主義を中心に少しだけ見えてきたのでページをめくってみた。

1937年、軍部の暴走を批判した矢内原は学内の反矢内原派と近衛内閣によって東大を追われるのであるが、どのように批判したのかこの5本の論文でかなりわかる。実際に軍部や近衛内閣から指摘された論文は全集の6巻以降のキリスト教関連に収まっているようで私の手元にはない。

満州国承認 1932年

日満経済ブロック 1935年

大陸政策の再検討 1937年

大陸経営と移植民教育 1937年

大陸と民族 1941年

 

満州国承認 1932年・昭和7年10月10日「帝国大学新聞」

「去る9月15日を以って我国は満州国の承認を敢行した。行く所に行きついたのである。・・・」で始まるこの小論は矢内原の師、新渡戸が松山で「日本を滅ぼすのは共産党軍閥。どちらかと言えば軍閥」との舌禍事件を起こした年でもある。

ここで矢内原は満州国承認によって日本が受ける利益、不利益を学術的に述べている。承認という行為は内縁関係が婚姻関係になったと同じと書く。そして満州事変勃発の際「景気は満州より」という扇動に国民は騙された。満州問題は堅実な責任ある態度で果たされるべきと。

私は満州建国、承認の詳細を知らない。「景気は満州より」と煽ったのはもしかしたら笹川良一あたりではないか?

新渡戸の松山事件はこのサイトに詳細がある。

https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/910cb8363cb2f4d8afe94de5a71fbc5e

「戦争がさかんになれば共産党が反動的に必ず勢を増す。そこで日本の危機を招来するといふようなことを日本の軍人は少しも考えないでワイワイ騒ぐんだ、刻下の問題として日本の国では、共産党より軍閥の方が危険だ」

 

日満経済ブロック 1935年・昭和10年2月 「婦人之友」第29巻第2号

「世界大戦は19世紀末より20世紀初めにかけての帝国主義諸国の政治経済闘争の総決算として行われたものであった。・・」でこの論文は始まる。

小国の誕生とブロック経済のことが議論され、植民地を持つ日本の議論に移る。ここで日満ブロック経済論が否定的に議論されている。

 

大陸政策の再検討 1937年・昭和12年1月6日ー12日「報知新聞」

この年の暮、矢内原は東大を追われる。この論文は5つの節にわかれているので、「報知新聞」の昭和12年1月6日ー12日に5回の連載だったのであろう。

1では大陸政策を歴史的に考察。英米との親善主義が基本であり伝統であった。

2ではロシアとも平和的経済的政策がとられたが軍縮が「整理」と「忍耐」を軍部に大きな打撃となった。これが満州における関東軍の決定的行動に。

満州事変後、連盟脱退後の日本外交は協調外交から孤立外交に。軍縮が軍拡に。そして軍部による国家政策へ。ここに民衆からの反発も生まれる。(共産主義のことか)

4ここで矢内原がひどく批判した蠟山政道の「生命線」という国民への扇動的言葉が再度、批判的に出て来る。

ナチスドイツ協定が批判される。国民はこの問題を深刻に受け止めなかった。共産主義運動壊滅後にもかかわらず協定が締結される時代錯誤。排日行動廃止のための強硬な北支政策が支那の抗日精神を刺激した。(矢野、後藤が主張した中国非国家論が満州政策を支持したが)満州事変によって支那の民族国家的統一が生み出された。現在の大陸政策は「行き過ぎ」である。

 

大陸経営と移植民教育 1937年・昭和12年1月 「教育」第6巻第1号

矢内原が第一高等学校に入学した明治43年9月、朝鮮併合が行われまもない時に校長であった新渡戸の入学式訓話からこの論文は開始する。新渡戸は朝鮮併合支持派、それも伊藤博文に直談判しに行くほどの強硬な支持派である。しかし1937年時点で行われる日本の移植民に、特にその管理者に「植民政策」が教えられていない。(3節最後の文。114ページ)

最後にアダム・スミスの米国植民論が引用され、日本も「自国文化を尊重すると共に移住地原住者の文化と生活とを尊重する精神・・この精神に基づく人間教育・・大陸経営に永久的貢献たるべき精神」と唱えている。満州大陸政策に大きな問題があったのであろう。

 

 この1937年に出された2つの小論、「大陸政策の再検討」と「大陸経営と移植民教育」 は国政批判である。また後藤・新渡戸が構築して来た植民政策が大陸政策に反映していなかったことも伺える。軍部による植民地運営は、1914年以降7年間続いた南洋群島での軍政を見ても明らかだ。現在の防衛関係者にその認識はあるのだろうか?

最後は1941年12月に出された小論である。

大陸と民族 1941年・昭和16年12月号 「大陸」

「云うまでもなく、今はわが国にとりましても、世界全体にとりましても、有史以来の大変動の時期でありまして・・」で始まるこの小論はまさに大戦開始かその直前に書かれたものであろう。ここには東亜共同体という概念に正しい学問的認識がないことが説かれている。ここに以前読んで気になっていた一文があった。「ある時、ある軍人の方が私を訪ねられて・・」で始まる一文だ。ここには薩摩と肥後が敵同士であったが今は仲間であるから大東亜も同じようになる、と軍人が述べていたことが紹介されている。矢内原を訪ねる位なので軍部の上層部のはずだが、その軍人がこの程度に認識であったのだ!矢内原は丁寧にも共同体構築の条件を6点上げてその間違いを示している。最後に「事変以来いろいろな美しい標語が濫発せられまして、私どもは言葉の政治にはもう飽きました。」熱意と信念だけでは共同体は構築できない、と結ぶ。

 

まさに矢内原が軍部に、また当時の国政に感じていることをインド太平洋構想に関係した私も痛感するところである。誰も、特に防衛省はインド太平洋のことを知らないのだ。よってこの本を書いたのである。こう云うと反発を受けることを覚悟で書くが、彼らは英語の、多分日本語の学術書さえ読みこなせないと思う。なのであえて平易な内容を書いてみたのだ。

meiseisha.thebase.in

 

後藤新平の大亜細亜主義(5)

f:id:yashinominews:20190907204454j:plain またイケメン後藤新平に会いに水沢に行きたいなあ

後藤新平の「大亜細亜主義」いよいよ最後となりました。

後藤の郷里、水沢にある後藤新平記念館の皆様にはせっかく文字を書き起こし、難しい漢字を調べていただいたのに申し訳ないです。

これも意地になって大雑把に解説すると、大局を、世界を見ずにいるとアジアは滅びる。例え名前だけ残ってあとは外国勢にいいようにされる。西洋も米国も歓迎するが、主権はアジア人にある。他方、人種差別は道理・天理に反する。

後藤の大アジア主義とは、中国の事であり、米国を意識した議論であった事が、少なくともわかった。現在、後藤の主張するように中国は、そしてアジアはアジア人が枢機を握る。西洋の植民地支配は終わりを告げた。しかしそのアジア人の国家運営は問題が多いことも事実だ。後藤であれば国を治めるのは「人」であるのだから教育をせよ、と言いそうだが。

 

縦い国其名を存するも是れ虚名のみ、人其命を支うるも是余喘のみ、是の故に苟もアジア洲中に動息するもの、政論の異同を論ずる無く、宗教人種の差別を問う無く、時の治乱に関せず宜しく斯の大アジア主義を毀損する無きを期すべし、而して此大アジア主義の下に一致せざるべからず、夫れ唯今日の功利に営々として主義の消長を慮らざる者是れ嘒百年の患害なり、一人の康楽に蕩々として而して世界の大勢を思わざる者は、儵億兆の禍毒なり、懼れざるべけんや、念わざるべけんや、抑大アジア主義たるや、アジアの康寧を無極に謀るに在り、而して他人種を排圧して独り自ら逞うせんと欲するにあらざるなり、人種の競争は人道に悖り、天理に逆らう、人類のなすべき所にあらず、惟うにアジア人大アジア主義に遵わざれば即ち自立する能わず、又徒に他洲人相争い相奪うにまかせ而して我れ之を制する能わざれば、則ち啻に我がアジア洲人自ら不幸を致すのみならず、実に世界人類の苛殃を速くなり、夫れ天地の康楽之を限る無し、世界の文化は之を塞ぎ難し、欧人来れ、美人来れ我れ未発の福地を発く、我れ焉んぞ之を拒まん、唯アジア洲の機枢はアジア洲人之を把持し、而して後以て五洲の和平を維持すべく、以て億兆の福祉を増進すべきのみ。

 

虚名…うわべだけの名声。

余喘…死ぬ間際のとぎれとぎれの息づかい。虫の息。

功利…功名と利益。幸福と利益。

営々…せっせと働くようす。

消長…物事の変化、盛衰。

嘒…細く美しい声の形容。「嘒嘒」声がよく調和しているさま。

患害…災い。災難。

蕩々…ゆったりとして。ゆらゆらして。

儵…ほんのわずかな時間のうちに。

康寧…やすらか。平穏無事。

無極…尽きない。限りない。

逞…勝手にふるまう。やりとおす。勢いが盛ん。

悖る…道理にそむく。

天理…自然の原理。正しい道理。

徒に…むだに。むなしく。

禍殃…思いがけない災難。

福地…仙人の住むところ。

 

後藤新平の大亜細亜主義(4)

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矢野仁一の「中国非国論」と後藤新平の「大亜細亜主義」その中国認識は同じだったのでは?


後藤新平の大亜細亜主義。短い論文だが難しいし奥が深い。中国問題ど素人の私はわからない。水沢の後藤記念館の皆さんがせっかく原稿を打ち直し、漢字も調べていただいたのに。。先行研究は皆無なのだろうか?なんせこの後藤の大アジア主義伊藤博文を暗殺者の待つハルビン(1909年10月26日)に向かわせるきっかけでもあったのだ。

後藤の大亜細亜主義が掲載されている「日本植民政策一班」は大正10年1921年に発行されている。後藤が伊藤に大亜細亜主義とロシアとの交渉を広島の宮島でもちかけたのが1907年、明治40年9月29日。新渡戸が伊藤公に朝鮮併合を2時間に渡り説得したのもこの頃だ。

さて、後藤の短い大亜細亜主義を5つに分けて読み込んで解説してみようと思ったがそんな能力はなく挫折している。それでも意地で書いてみれば、国を治めるのは「法」でなく「人」である。中国は米国の連邦制とかフランスの共和制など法的枠組ではない。しかしこのままでいればアジアは亡滅しアジア人は膾となる、と。

この大亜細亜主義が収められている「日本植民政策一班」が出版された1921年は京大の矢野仁一が「中国非国論」出した年でのある。矢野も米国の国体と中国は全く違うと書いているので、後藤・矢野の交流はあったのではないだろうか?

 

 

吾がアジア洲人の大アジア主義における、亦当さに是の如くなるべし、中国制を美国に仿い共和政体を創立す、人皆前途の幸福測るべからずと謂う、然れども治乱人に在り法に在らず、当年善制良法と為すもの後年弊竇たり乱階たるもの世常に多し、西土富強の道たる所以未だ必ずしも東邦の良謨たらず、故に中国政体の如き、果して政党の発達、美国の如く、法国の如きを得る乎、雋傑の崛起し共和は或いは岐れて各省分立為る無らん乎、或いは変じて連邦共立たる無らん乎、是れ亦未だ逆め賭けるべからず、但其共和たり分立たり連邦たるも、均しく是れ洲内の小紛擾に過ぎず、而して未だ全亜の機枢を傷くるに至らず、即ち未だ深く意と為すに足らざるなり、若し夫れアジア人アジアの機枢を把持する能わざるの日あらん乎、是れ真にアジア亡滅の時なり、洲中の諸国其土を保つ能わず、国中の民人其生を治むる能わず、国挙て焦土となり人皆魚膾となる、

 

治乱世の中の治まることと乱れること。

善制良い政治。

弊竇弊害のある点。

乱階乱が起こるきっかけ。

西土中国・インド・西洋のこと。

良謨良いはかりごと、計画。

雋傑普通の人よりも才能や人格が優れた人。

崛起むっくりと起き上がる。

小紛小さな争い。

ずるずるとかき回す。邪魔する。

魚膾魚のなます。