ドイツの植民政策を理解する事はインド太平洋理解に必須である。
高岡熊雄著『ドイツ内南洋統治史論』にパラオ、ヤップなどのカロライン諸島をめぐる、スペインとドイツの領土紛争を、ビスマルクが教皇レオ13世に仲裁を依頼し解決したことが詳細に書かれている。スペインとドイツ、そして教皇三者の面子を立てたソロモン裁定と高く評価された。
ドイツ北部、プロイセンのプロテスタントであるビスマルクがドイツ南部のカソリックと近い教皇に依頼した意味は大きい。このカソリック問題こそが文化闘争と言われるドイツ統一の課題であったからである。しかし、カロライン諸島紛争が起こった1885年頃にはドイツ統一はある程度進み、カトリックとの対立、すなわち文化闘争もビスマルクの頭痛の種ではなかったのだ。その背景には、カロライン諸島領土紛争で、ビスマルクと教皇との、すなわちカトリックとの関係が良好になったことも挙げられるであろう。
ドイツ統一の詳細を知らなかったが、『ドイツ帝国と文化闘争』という論文を見つけた。広実源太郎氏の論説(史林 1951)である。多分まだ20代か30代の若き研究者の論文ではないかと思う。広実にはウィーン革命やハンガリー革命の論文があるので欧州研究の専門家なのであろう。同論文には文化闘争とは1871年ドイツ帝国統一直後に開始され、1886年頃に終了したとあるのでまさにこのカロライン諸島領土紛争解決と共に終了したのである。数本の論文を読んだだけで判断できないが、カロライン諸島領土紛争でプロテスタントのビスマルクと、カトリックのレオ13世とスペインが和解したことこそが、この文化闘争を終了させたのではないか?
このドイツ国内のカトリックグループは政党を作りこれがキリスト教民主同盟(CDU)の原点になっているのだ。やはり旧独領太平洋島嶼国とドイツは今につながっているのだ。そして領土紛争解決は国際法の正確な判断ではなく、レオ13世が、ビスマルクが行った高度な国際政治手腕であることを、この例から学ぶことができる。