矢内原の満州・大陸政策小論5本

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矢内原忠雄全集第5巻の「論文(下)」には6本の南洋に関する小論が収められている。これをきちんと読もうと本を再度開いのだが、その6本の論文の前に5本の満州と大陸に関する小論が収められている。中国のことも満州のこともわからないから読まないでいたが、緒方貞子さんの満州事変の論文や、後藤新平アジア主義を中心に少しだけ見えてきたのでページをめくってみた。

1937年、軍部の暴走を批判した矢内原は学内の反矢内原派と近衛内閣によって東大を追われるのであるが、どのように批判したのかこの5本の論文でかなりわかる。実際に軍部や近衛内閣から指摘された論文は全集の6巻以降のキリスト教関連に収まっているようで私の手元にはない。

満州国承認 1932年

日満経済ブロック 1935年

大陸政策の再検討 1937年

大陸経営と移植民教育 1937年

大陸と民族 1941年

 

満州国承認 1932年・昭和7年10月10日「帝国大学新聞」

「去る9月15日を以って我国は満州国の承認を敢行した。行く所に行きついたのである。・・・」で始まるこの小論は矢内原の師、新渡戸が松山で「日本を滅ぼすのは共産党軍閥。どちらかと言えば軍閥」との舌禍事件を起こした年でもある。

ここで矢内原は満州国承認によって日本が受ける利益、不利益を学術的に述べている。承認という行為は内縁関係が婚姻関係になったと同じと書く。そして満州事変勃発の際「景気は満州より」という扇動に国民は騙された。満州問題は堅実な責任ある態度で果たされるべきと。

私は満州建国、承認の詳細を知らない。「景気は満州より」と煽ったのはもしかしたら笹川良一あたりではないか?

新渡戸の松山事件はこのサイトに詳細がある。

https://blog.goo.ne.jp/onaraonara/e/910cb8363cb2f4d8afe94de5a71fbc5e

「戦争がさかんになれば共産党が反動的に必ず勢を増す。そこで日本の危機を招来するといふようなことを日本の軍人は少しも考えないでワイワイ騒ぐんだ、刻下の問題として日本の国では、共産党より軍閥の方が危険だ」

 

日満経済ブロック 1935年・昭和10年2月 「婦人之友」第29巻第2号

「世界大戦は19世紀末より20世紀初めにかけての帝国主義諸国の政治経済闘争の総決算として行われたものであった。・・」でこの論文は始まる。

小国の誕生とブロック経済のことが議論され、植民地を持つ日本の議論に移る。ここで日満ブロック経済論が否定的に議論されている。

 

大陸政策の再検討 1937年・昭和12年1月6日ー12日「報知新聞」

この年の暮、矢内原は東大を追われる。この論文は5つの節にわかれているので、「報知新聞」の昭和12年1月6日ー12日に5回の連載だったのであろう。

1では大陸政策を歴史的に考察。英米との親善主義が基本であり伝統であった。

2ではロシアとも平和的経済的政策がとられたが軍縮が「整理」と「忍耐」を軍部に大きな打撃となった。これが満州における関東軍の決定的行動に。

満州事変後、連盟脱退後の日本外交は協調外交から孤立外交に。軍縮が軍拡に。そして軍部による国家政策へ。ここに民衆からの反発も生まれる。(共産主義のことか)

4ここで矢内原がひどく批判した蠟山政道の「生命線」という国民への扇動的言葉が再度、批判的に出て来る。

ナチスドイツ協定が批判される。国民はこの問題を深刻に受け止めなかった。共産主義運動壊滅後にもかかわらず協定が締結される時代錯誤。排日行動廃止のための強硬な北支政策が支那の抗日精神を刺激した。(矢野、後藤が主張した中国非国家論が満州政策を支持したが)満州事変によって支那の民族国家的統一が生み出された。現在の大陸政策は「行き過ぎ」である。

 

大陸経営と移植民教育 1937年・昭和12年1月 「教育」第6巻第1号

矢内原が第一高等学校に入学した明治43年9月、朝鮮併合が行われまもない時に校長であった新渡戸の入学式訓話からこの論文は開始する。新渡戸は朝鮮併合支持派、それも伊藤博文に直談判しに行くほどの強硬な支持派である。しかし1937年時点で行われる日本の移植民に、特にその管理者に「植民政策」が教えられていない。(3節最後の文。114ページ)

最後にアダム・スミスの米国植民論が引用され、日本も「自国文化を尊重すると共に移住地原住者の文化と生活とを尊重する精神・・この精神に基づく人間教育・・大陸経営に永久的貢献たるべき精神」と唱えている。満州大陸政策に大きな問題があったのであろう。

 

 この1937年に出された2つの小論、「大陸政策の再検討」と「大陸経営と移植民教育」 は国政批判である。また後藤・新渡戸が構築して来た植民政策が大陸政策に反映していなかったことも伺える。軍部による植民地運営は、1914年以降7年間続いた南洋群島での軍政を見ても明らかだ。現在の防衛関係者にその認識はあるのだろうか?

最後は1941年12月に出された小論である。

大陸と民族 1941年・昭和16年12月号 「大陸」

「云うまでもなく、今はわが国にとりましても、世界全体にとりましても、有史以来の大変動の時期でありまして・・」で始まるこの小論はまさに大戦開始かその直前に書かれたものであろう。ここには東亜共同体という概念に正しい学問的認識がないことが説かれている。ここに以前読んで気になっていた一文があった。「ある時、ある軍人の方が私を訪ねられて・・」で始まる一文だ。ここには薩摩と肥後が敵同士であったが今は仲間であるから大東亜も同じようになる、と軍人が述べていたことが紹介されている。矢内原を訪ねる位なので軍部の上層部のはずだが、その軍人がこの程度に認識であったのだ!矢内原は丁寧にも共同体構築の条件を6点上げてその間違いを示している。最後に「事変以来いろいろな美しい標語が濫発せられまして、私どもは言葉の政治にはもう飽きました。」熱意と信念だけでは共同体は構築できない、と結ぶ。

 

まさに矢内原が軍部に、また当時の国政に感じていることをインド太平洋構想に関係した私も痛感するところである。誰も、特に防衛省はインド太平洋のことを知らないのだ。よってこの本を書いたのである。こう云うと反発を受けることを覚悟で書くが、彼らは英語の、多分日本語の学術書さえ読みこなせないと思う。なのであえて平易な内容を書いてみたのだ。

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