『新渡戸と朝鮮半島』田中慎一 <読書メモ>

「閣下がビスマークにお会ひの時に内地植民の計画についてお聞きではありませんですか。必ずお聞きになったことと私は存じます。...」

「...社会政策上ドイツでは、一つの誇りとしてをる方針である。且つまた歴史に今までなかった試験をしたことで、これに類したことはすでにローマ時代にやってをりましたが、新しい方法を持つての計画に、しかも平和的に一民族を他の民族の中に移植する設計は、政治家の研究する価値の確にあるものと思ひます。...」

 新渡戸稲造日韓併合に大きく関わっていた事を、「偉人群像」の「伊藤公」で知った。新渡戸は韓国植民のために、現地に赴き、総督だった伊藤博文に面会し、プロシャの、ビスマークの内国植民について講釈をしたのである。そしてこの内国植民については以前ブログで連載した高岡熊雄博士が詳しい事も他の資料でわかった。高岡は、後藤新平新渡戸稲造と共にドイツの内国植民の現地を視察している。

 

 現在の日韓関係を新渡戸が知ったらなんと言うか?

 新渡戸研究の中でも、その植民政策に関する質の高い研究は少ないように思う。その中で安心して、即ち理論的議論展開をしているのが北海道大学の田中慎一教授の論文である。別件の調べ物で「季刊三千里」という雑誌をめくっていたら、新渡戸に関する田中論文があった。いつか読みたいと思いつつ放っておいた。

 まずは新渡戸の略歴と植民学者とのしての横顔が端的にまとめられている。そして台湾総督府官吏としての詳細に移り、ここで新渡戸が後藤、児玉だけでなく多くの高級軍人、植民地行政官僚とのコネクションを得ていく。

 この日本の植民政策学の始祖、新渡戸の朝鮮との関係が語られてこ来なかった理由が2つ書かれている。それは戦後、弟子の同じく植民政策学者、矢内原の改竄であった。矢内原は日韓併合の時の新渡戸の演説を記録しているのだが、戦後の同じ文章からはその部分をごっそり削除したのだ。

 2つ目の理由がどの資料にも1906年10月9日の新渡戸の渡韓が書かれていない事をあげている。さらに新渡戸渡韓の関連文章が紹介され、新渡戸の韓国植民の強い意志を確認している。

 新渡戸が亡くなる1933年5月に新渡戸は渡韓している。田中氏は最後に新渡戸が植民地朝鮮を科学的批評をしなかった事を、日本の自由主義の父の限界、と論じている。私はこの部分はわからない。新渡戸が植民地朝鮮をどのように観察していたか?日韓併合から1921年ジュネーブの連盟事務局次長になるまでの約10年、新渡戸が植民地朝鮮をどのように関与、観察していたのか?その任務は東大の植民政策学を引き継いだ弟子の矢内原に依頼し、期待したはずだ。