矢内原の新渡戸観ー『余の尊敬する人物』

矢内原忠雄全集24巻に収められている『余の尊敬する人物』に新渡戸の章がある。

序文が書かれたのは昭和15年、1940年は、矢内原が東大を追われた1937年から3年目。新渡戸が亡くなってから7年目だ。

矢内原はこの本にエレミヤ、日蓮、リンコーン、新渡戸の4人を取り上げている。紙面が尽きたのだそうだ。

『続余の尊敬する人物』が昭和22年に出版されてるが、こちらにはイザヤ、パウロ、ルッター、クロムウェル内村鑑三の5名が取り上げられている。

 

昭和15年に書かれたこの本は戦後昭和23年に第5版が出ているがかなり削除されており、矢内原はその事をどこにも書いていない。これを矢内原の新渡戸の改竄と以前以前このブログで紹介した。

手元にある1965年出版の全集にはどのように修正されたかわかるようになっている。編集者は「相違の箇所が、日本の大陸発展に関する部分と米国の排日移民法に関する部分であることは、占領下の出版事情と無関係ではないと考えられる。」と書いている。

即ち新渡戸が日本の韓国植民を讃え、米国の人種差別を批判した箇所である。

 

矢内原はどんな意図で、またどんな気持ちでこれらの箇所を修正したのであろうか?

繰り返すが新渡戸は植民主義者で、帝国主義者で、自由主義者だったのだ。前者の2つは新渡戸自身が批判した軍閥に、後の一つはこれも新渡戸が批判した共産党に、結果として利用されたのではないだろうか?

 

さて、この章で興味深かったのは、新渡戸が一高を辞任した話である。新渡戸が第一高等学校校長に就任したのは1906年。最初1、2年の予定が1913年まで留任。異例の長さだったらしい。しかし、新渡戸の自由主義的教育方針は政府、世間、学生からも常に攻撃の的であったらしい。

後に、新渡戸が批判した軍閥、右翼から見れば西洋かぶれの新渡戸は軟弱に写り、

後に、新渡戸が批判した共産党からは、新渡戸の皇道観や植民・帝国主義は受けれがたもののようであった。当時マルクスがはやる中で、新渡戸はスミスを取り上げ、学生から馬鹿にされていたのだ。そんなマルクスかぶれの学生の中で矢内原は、新渡戸と吉野作造だけが帝大の授業で面白かったと書いている。

 

矢内原忠雄全集24巻にはもう一つ、矢内原が新渡戸について書いた文章が集められた章がある。

実はここに1949年11月25日の天皇陛下に進講した「新渡戸稲造について」が収められているのである。次回はこれをまとめる。