昭和研究会の起源

 

「民族の自決とレーニン」で紹介した『日本・1945年の視点』(三輪公忠著、東京大学出版会、2014年)は重ねて貴重な本である。

日本を戦争に追い込んだのであろう「昭和研究会」の起源も書いてある。

第三章大正の青年と明治神宮の杜、だ。

1915年から造営が開始された明治神宮。ここに集まったのが地方の青年達である。

1921年、文部省から設立許可が降り神宮内に日本青年館が建つ事となった。初代理事長が近衛文麿

1931年、この青年館内に

新渡戸稲造を委員長とし、蝋山政道東畑精一等を委員とする農村問題研究会が、事務局をここに置いて発足している。(中略)青年館を連絡場所として展開したこのような活動の中心にいたのは後藤隆之介であった。」(『日本・1945年の視点』三輪公忠著、東京大学出版会、2014年、98頁)

 

1933年、新渡戸がバンフで開催された第5回太平洋問題調査会の会議参加直後、バンクーバーで客死し、太平洋問題調査会でラティモア反日プロパガンダが始まるころ、

「後藤の組織力で、新渡戸の農村問題研究会のメンバーを一つの核とし、「青年団運動の中から、人的にも思想的にも、多くのものを負って」昭和研究会が生まれた。この研究会の目的は、近衛を擁立して、軍部の反対をも封ずることができる挙国一致内閣を作ろうというものであった。」(『日本・1945年の視点』三輪公忠著、東京大学出版会、2014年、98-99頁)

昭和研究会が新渡戸に繋がっていたのである。

しかし、新渡戸が亡くなった後の藤隆之介の動きを、即ち昭和研究会の発足を、もし新渡戸が生きていたらどう見るであろうか?新渡戸の近衛文麿に対する評価が高かったと思える記述にはまだ出会っていない。

 

三輪公忠氏の記述で疑問に思う箇所がある。新渡戸が一高時代の生徒、近衛と後藤に目をかけていた、とあるが、出来の悪い生徒として目をかけていたので、評価はしていなかったと思う。いくつかの関連書籍を読んでの現時点の当方の勘だ。

また農村問題研究会の東畑精一は、矢内原が東大を追われた1937年以降、矢内原の後釜として植民政策講座を担当している。東大の植民政策学講座は台湾から帰朝した新渡戸が担当していたが、国際連盟事務局次長の職を得た新渡戸が後釜に据えたのは矢内原忠雄だった。

その矢内原は1937年、軍国主義を批判したため近衛(木戸幸一文部大臣)によって(ここは当方の解釈)東大を追放される。辞任の際、矢内原は近衛首相宛に辞表を書いている。

これも当方の勘だが、矢内原と同じく新渡戸を尊敬し慕っていた近衛は、自分が新渡戸から評価されず、新渡戸から高く評価されていた矢内原に嫉妬していたのではないか?近衛は一高で矢内原と同学年か、1、2年上のはずだ。

昭和研究会の中心メンバーで近衛のブレーン蝋山政道の思想言論態度は自殺的矛盾、と矢内原は叩いている。新渡戸の植民政策論を継ぐ矢内原の言論はある程度新渡戸を代弁していると解釈してもよいのではないだろうか?

参考

矢内原忠雄を読む 蝋山政道帝国主義者

矢内原忠雄を読む 蝋山政道は帝国主義者 - やしの実通信