矢内原の新渡戸観ー『内村鑑三と新渡戸稲造』

矢内原は、1949年11月25日昭和天皇に「新渡戸稲造について」進講している。

いったいどのような事を話したのか?

 

戦後、矢内原は新渡戸を改竄しているのだ。植民主義者で帝国主義者だった新渡戸を矢内原はどのように捉えているのか?

 

矢内原忠雄全集24巻には、矢内原の新渡戸観が述べられている文章がいくつかある。

此の本も近々図書館に返却する必要があるので、急いでメモ程度だがまとめたい。

 

まずは「内村鑑三新渡戸稲造」という章に「新渡戸先生の宗教」「内村鑑三新渡戸稲造」の2つの講演記録がある。

 

内村鑑三新渡戸稲造」(矢内原忠雄全集24巻、1965年、岩波書店、385−401頁)

終戦翌年、昭和21年9月27日に北海道大学での矢内原の講演記録だ。

 

矢内原はこの講演の結論を先に述べている。

「この二人の先生が建てようとした如く日本の国が建てられたならば、日本は今日の悲惨なる国辱・国難を見る事なくして、我々も諸君も平安に学問に従事し、仕事に従事する事が出来たであろう。然るにこの両先生の志したところに反対する思想と勢力が日本を指導したがために、今日の有様となったのである。」

 

新渡戸の帝国主義と植民主義が明治維新以降の日本の発展を支えたと共に、また戦争にも導く、諸刃の刃的存在であった事を当方は日々考えている。矢内原の言う「両先生の志したところに反対する思想と勢力」とはなんであったのか?

 

一つは内村の「初夢」に出て来る「富士山頂の滴つた露が溢れて世界をうるほし、アルプスの嶺が手を打つて歓呼したという世界平和の状態は、ナショナリズムの思想であり、又インターナショナリズムの思想でもある」(390頁)と書いている。しかしこれが「八紘一宇」という擬い物になった。両先生の夢を裏切った日本の指導者たちの偽りであった、と断罪する。

矢内原はさらに、かかる考え(八紘一宇)は壊滅し大東亜戦争論者は戦犯になり、裁判されるに値する、とまで言っている。しかし続いて

 

日本民族の選民観念は戦犯的思想であるとして、厳重な監視を蒙つてをる。そのため一面に於いて日本人は、日本の神話と伝統と歴史に就いて、又は日本民族の性格と能力に就いて、ややともすれば自信を失ひ、外国に依存追随する卑屈な気持ちにさへも危うく堕ちんとしてをるのです。」

 

ナショナリズム的な事を述べている。

矢内原は、新渡戸と内村の武器を再び自分たちが取り上げ前進しなければならない、とも言っている。(440−441頁)

 

さらに日本の保守が喜びそうな事を書いている。

「内村、新渡戸両先生仆れて、日本の外見は滅びました。併し之れを以て日本国が永遠的に奴隷的状態に沈淪すると思ふ者に恥辱あれ。私共は崩れるものを崩れさせませう。誤謬の精神によって指導せられた誤謬の日本は、壊滅するまま壊滅させませう。」(401頁)

 

誤謬の指導者とは、1937年矢内原を東大から追放した、近衛文麿木戸幸一蝋山政道等々(平泉澄も?)ではないか?

講演の中でも語られているが、言論弾圧の環境の中での講演だったのであろう。内村、新渡戸共キリスト教信者であったので、キリスト教の話を中心に語られているのだが、歯にものが挟まったような文章だ。

それから矢内原は馬鹿に馬鹿というタイプだったらしく、後年自分でも反省している。東大追放の背景も矢内原の軍部批判だけでなく、東大内の他の教師への批判が背景にあった。そんな自分の言動の戒めもあったのかもしれない。これは矢内原が少しだけ見えて来た当方の想像である。