「内村鑑三と新渡戸稲造」(矢内原忠雄全集24巻、1965年、岩波書店、385-401頁)に、昭和16年1月、芝フレンド教会での矢内原の講演記録「新渡戸先生の宗教」がある。
新渡戸が亡くなって8年目。真珠湾攻撃の年。矢内原が東大を追われた1937年から4年目。
ここに新渡戸が好きであったとう歌が2つ紹介されている。
見る人の心ごころにまかせおきて高根に澄める秋の夜の月
うつるとは月も思はずうつすとは水も思はぬ広沢の池
それから、新渡戸がジャンヌダルクに強い関心を持って彼女の痕跡を欧州滞在中に追った話は新渡戸自身が書いていたが、矢内原によると神秘的な経験は晩年まで興味を持ち、欧州滞在中に霊媒・霊交術など心霊現象の学会にも出ていたという。(410頁)矢内原が書いているように、新渡戸は甚だ理知的なので、これは意外だった。
仕事の動機について紹介されている。これは日頃、自分はなぜ仕事をするのか、勉強するのか?と考える事があるので参考になった。
「仕事の動機が、人を憎まず人を羨まず人を害さず、又名誉利益の為に焦らなければ、言い換えれば、動機が潔白であれば、其の時は何をしてもよい、晩るることがない。」(411頁)
そして、新渡戸が開拓したのであろう「教養」についても述べられている。
教養と修養は基本的に同じ。これは英語のcultureの訳である。ただ新渡戸の修養は道徳に重点を、教養は知性に重点を置いている。そして矢内原は今日の(昭和16年の)教養には宗教信仰が欠如していると説く。
そして新渡戸亡き後、政治、軍事のリーダーはいるが、思想的指導者はいない、と嘆く。
なぜ、新渡戸は、また内村は、思想的リーダーを育てられなかったのか?矢内原の言う誤謬の指導者が生まれたのか?これが当方の疑問である。