九鬼周造も和辻哲郎も、矢内原も、松本重治も、みんな新渡戸信者だったのである。
そして、民俗研究家の大家、柳田國男を作ったのも新渡戸だったのだ。
これを知った時はショックだった。
文学青年だった柳田が地方研究に向いたのは新渡戸のせいであった。
それだけではない。柳田は新渡戸に呼ばれて国際連盟に赴き、委任統治委員会のメンバーとなりジュネーブに滞在したのだ。そこで柳田は主に言葉の壁で挫折して、そして多分新渡戸とも決裂して日本に戻ってきたのだ。
(ここら辺の背景を何も知らず以前引用したブログがある。)
しかし柳田は常に新渡戸の背中を見ていたのだ。
その背景がわかる本を以前紹介した。
新渡戸の植民政策には先住民を保護し、支援する事が中心だったのである。その精神は多分彼が言い出した「ぢかた(地方)の研究」にあるのだろう、と以前から思い、第5巻を再度図書館から借りた。随想録の中に納められておる、講演集の5つの文章の内の一つで、8頁と短い。
新渡戸は明治40年の第2回報徳例会でこの講演を行い、34歳の若き法制局参事官柳田の人生を変えたのである。
参照ウェッブ:
郷土のエネルギー発現を目ざした「新渡戸稲造」と「柳田国男」 http://www.sasayama.or.jp/column/link_4.htm
即ち現在議論されている地方研究、郷土研究、地方創成も、原点を新渡戸に辿る事ができるのだ。
そして、植民政策においても新渡戸の「ぢかたの研究」の概念は、先住民の福祉教育、文化、歴史を大事にする姿勢と繋がっているのだと、当方は想像している。
地方の研究 (新渡戸稲造全集 第5巻 178-185頁、2001年、教文館)は次の言葉で始まる。
「地方はヂカタと訓みたい。元は地形とも書いた。然しヂカタは地形のみに限らず、凡て都会に対して、田舎に関係ある農業なり、制度なり、其他百般の事に就きて伝へるものにて、夫れを学術的に研究してみたい考で、謂はば田舎学とも称すべきものである。」
続けて、新渡戸は田舎と都会の違いを色々と比較し、詩人テニソンの言葉を引用して、地方がわかれば帝国主義も割り出し得らるる、と主張する。
「詩人テニソンは、小さな一輪の花を取って、比花の研究が出来たら、宇宙万物の事は一切分かると言った。即ち、一葉飛んで天下の秋を知る如く、一村一郷の事を細密に学術的に研究して行かば、国家社会の事は自然と分かる道理である」(181頁)
そして主にドイツでの地方研究を紹介しつつ、自分は家屋建築法を研究し日本の社会構造を論ずることや、同様な研究で英独仏の習慣の違いが見えてくる事を説いている。さらに言葉、音楽、酒造、演劇なども学術的研究が必要である事を説く。
最後に
「・・・ 要するに地方の研究は、第一自治制度の参考にもなり、又た都会は国民の体力を弱くする恐れがあるに反して、田舎は国民の体格を強め、元気を養うが故に、教育にも効力があるから、成るべく青年をして地方土着の思想を起さしめなば、国力発展の上に多大に効験が顕はれるだろう。それ故に地方生活には新趣味を持たせたいものである。」(185頁)
とまとめている。
この講演が行われたのが明治40年、1907年。日露戦争勝利後の人々の心が荒んでいる時だ。
柳田始め青年が道を迷っていた頃の、一つの灯だったのかもしれない。
しかし、柳田と新渡戸を結んでいた地方研究は国際連盟の委任統治委員会の現実の前に崩れたのであろう。それが(当方が苦手な)柳田の世界を作ったようにも思う。
<追記>
新渡戸に関する論文はピンキリのようだが下記の論文は勉強になった。新渡戸、柳田、植民研究、地方研究がつながったきっかけである。再読してブログにまとめたい。
並松信久「新渡戸稲造における地方(ぢかた)学の構想と展開 ー 農政学から郷土研究へ」
京都産業大学論集. 社会科学系列 28, 43-88, 2011-03