新渡戸に見捨てられ、批判されるファシスト柳田の民俗学

続いて佐谷 眞木人著『民俗学・台湾・国際連盟』から。
 
柳田を国際連盟に推挙したのが新渡戸である。
柳田は新渡戸の委任統治に対する熱意を理解していた。
柳田の民俗学は新渡戸が示した地方文化研究の根本的学問の方向性を引き継いでいる。
 
その新渡戸に柳田は見放され、見捨てられ、批判されたのである。柳田は国際連盟で言葉の壁にぶつかり突然辞任したのだ。新渡戸がここまで怒る背景には、郷土研究だけでなく日韓併合で二人は協力し、柳田に対して大きな期待を持っていたからであろう。その後、新渡戸が忙しい事もありこの二人の関係は修復されることがなかった。
 
しかし柳田研究者のロナルド・A・モースは「柳田は新渡戸の背中を見て歩いていた」と述べるように、連盟を去った後も柳田は新渡戸を意識していたはずである。
 
そんな柳田を言葉の能力だけでなく、郷土研究の姿勢からも新渡戸は痛烈に批判している。
柳田は国際連盟で欧州滞在中に、ドイツの民俗学の影響を受ける。それは「一国民俗学」という形になり、ナショナリズム全体主義に容易に結びつくものであった。柳田が倣ったドイツの民俗学ナチスに結びついて行ったのである。
そんな柳田の民俗学を新渡戸は次のように批判する。
「村に関する物語に興味を感じて、せっかくの研究を骨董化するもの」「趣味的から郷土を慕うものは、童謡や踊りを挙げて田園の生活を極楽化するの嫌いがある」
 
柳田批判は1990年代に相次ぎ、その再批判もあったという。批判は柳田の民俗が植民地支配やナショナリズムに結びついていたという批判だ。
その中の批判の一つ『南東イデオロギーの発生 柳田國男植民地主義」を次は取り上げたい。