稲村公望氏の新渡戸と柳田に関する誤解

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2015年に出版された『民俗学•台湾•国際連盟 ー 柳田國男新渡戸稲造』佐谷眞木人著を読んでからと思っていたが、本棚にまだ残していた。

私は90年代から10年ばかり八重山諸島を中心に「やしの実大学」という事業を地元の有識者達とたち上げ運営してきた。その中で、沖縄研究を中心に柳田やその周辺(即宮本常一、網野、谷川など)の「民俗学」はざっとだが読んでいた。しかし国際政治の現場と学問的議論を勉強する中で柳田の民俗学の限界を認識した。平たく言うと「可哀想な離島、寒村、僻地という視点では現実を議論し改善することはできない」と言う事だ。2017年一つ目の博士論文を書き終えた後、かなりの本を処分する中に柳田関連の本もあったのだ。

国文学者、佐谷眞木氏の本は2016年に読んでブログにも書いているが、昨日再読した。
https://yashinominews.hatenablog.com/entry/2016/04/08/051452

新渡戸は柳田と同じく農政学を修めている。台湾植民もその流れである。札幌農学校、米国、ドイツ留学で学んだだけではない。新渡戸の祖父、父は農地開拓者として明治天皇からも嘉賞を受けており稲造は理論だけでなく、現場からも学んでいるのだ。新渡戸が「地方(ジカタと読む)の研究」で主張した研究対象には台湾で行われた「旧慣調査」と同じく童謡や民話の収集も含まれていた。

その議論は柳田に民俗学の道を示したのである。33歳の柳田は1907年の新渡戸の講演を聞き強い感銘を受ける。柳田も神隠しなど伝承に関心があった事と専門の農政学が新渡戸の「地方の研究」によって結びついたのである。

柳田は明治40年頃自ら「郷土研究会」を開催していたが明治43年(1910年)から新渡戸邸で「郷土会」に引き継がれる。新渡戸が国際連盟事務次長として日本を離れた1919年までこの研究会は継続する。

1919年 ー 柳田が貴族院書記官長を辞任した年である。

新渡戸が国際連盟に柳田を招聘する話。そして柳田がドイツの民俗研究と接近し、ナチスとの関連など後2回位に分けて書きます。