昨年出たばかりの本である。
新渡戸稲造が自宅を解放して、柳田國男と「地方の研究」をしていた事はどこかで読んで知っていた。
しかし、柳田國男が文学青年から地域研究に方向を変えたのは、台湾から帰ってきた新渡戸の講演に触発されてであった事は知らなかった!
柳田國男が、ベルサイユ会議に参加していた事は知っていた。しかし、柳田がmandate territoryの委員をしていた事は知らなかった。しかも、新渡戸稲造の意向だったが、柳田は主に語学の限界や理想の限界で、新渡戸と袂を分かつ形で国際連盟を去ったのである。
よって、柳田と新渡戸の関係は表面上なくなるのだが、柳田は常に新渡戸稲造の背中を見て歩いていたのである。
同書の「あとがき」にはこの本を書く背景が書かれているが柳田国男研究の第一人者ロナルド•A•モース氏が著者にそのように語っている。
柳田國男の日本研究が与えた影響を考えると、その背景に新渡戸稲造がいたことは感慨深い。
二人を話した肝腎の理由が同書では掘り下げられていないのが残念だが、何があったのであろうか?
最後に同書で気になる点は、新渡戸稲造がウッドロー•ウィルソンと同級で、ウィルソンがベルサイユ会議で掲げた「民族の自決」を新渡戸稲造が支持しているように書かれているが、果たしてそうであろうか?また著者は植民は悪い事で自立がよい事のように書いているが、これに新渡戸稲造は賛成するであろうか?
まだ新渡戸稲造を読み進めていないので、これは当方の想像だが、新渡戸はウィルソンの人種差別的言動を、また彼が掲げた「民族の自決」の限界を、そして自身の台湾の植民経験から「植民」の本来の意味を知っていたのでは?イヤ知っていたはずである。