柳田國男が、新渡戸稲造と「地方」(ヂカタ)の研究をし、新渡戸の国際聯盟勤務に伴って、聯盟の委任統治委員会に新渡戸から呼ばれた事を昨年知った。
聯盟の委任統治地域とは日本が統治、植民したミクロネシアの島々である。
柳田國男全集をめくってみると、年代別の柳田の文章がまとめてある。
柳田がスイスの聯盟事務局へ赴いた1922年辺りを図書館で手に取った。
下記の26巻には貴重な情報が山程あるがこれは次回まとめる。
『柳田國男全集26 大正十一年〜 ─大正11年・大正14年』
『柳田國男全集27 大正十五年〜 ─作品・論考編 大正15年〜昭和3年』には戦争が始まった後の1942年の柳田のスピーチ原稿が収められており、そのタイトルに惹かれてて読んだ。
「太平洋民族学の開創 松岡静雄」、昭和17年5月23日、水交社における故松岡静雄氏追悼座談会記録
1936年5月23日に没した松岡静雄は柳田の実の弟である。太平洋民族学の権威だ。
私はまだ彼の作品を読んでいない。しかしこの短いスピーチから柳田と松岡の太平洋に関する議論がどんなものであったか知る事ができる。この実の兄弟は最後は袂を分ったようだ。
驚いたのは、柳田が戦争開始後の1942年にニューギニアを日本にしよう、と訴えている事だ。世論を喚起して欲しいとこのスピーチを結んでいる。それが弟、松岡の気持ちでもある、と。
松岡は生前オランダと組んで日蘭通交調査会を立ち上げていたのだ。
考えてみれば、あの当時、ましてや植民主義者の新渡戸門下で、しかも聯盟の委任統治委員であった柳田が植民に反対する立場のわけないが、こうやってはっきり、しかも戦争が始まってすぐにニューギニアの北部とオランダ領西部を日本にしよう、と言っているのは私には驚きである。
まさか、この柳田のスピーチで世論がひろまって、日本軍のニューギニア進行に影響があったのだろうか?
柳田全集を読んで行けば、敗戦後の彼の気持ちや、このスピーチでは否定的な日本人南方説(新渡戸が支持していた説)を扱った『海上の道』を晩年に書いた背景もわかるかもしれない。
いや、柳田研究の中で、誰かが既に調べてくれていると嬉しいのだが。
<追記>
このブログを読まれたパプアニューギニア在住の日本人の方から連絡があった。
「ここの人はみんな日本が戦争に勝ってたら良かったって言うのですが。」即ち先の大戦で日本が勝手いれば日本の統治下になったわけで、その方がよかった、と。
リップサービスではないのですか?と聞いたら大多数の本音です、との返事。
これは柳田と松岡に聞かせたい。