『日本-その問題と発展の諸局面』(23)

新渡戸の天皇象徴論が展開されるのは、第四章の第一項「国体ー日本の憲政上の固有性」である。

 

象徴論の部分は下記に書いたので省略する。新渡戸は「天皇は国民の代表であり、国民統合の象徴である。」と言っている。

 

新渡戸稲造の天皇象徴論(3) - やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

 

「国体」ー 元々国家の構造や機能を示していた中国の言葉が、水戸学派によって日本皇室の権威の根本的特徴として用いられ、日本では特別な意味となった。これが1900年辺りから日本の政治体制の固有性として強調され、半倫理的、半政治的概念として始まった概念が「政治的規範」に変わってしまった、と新渡戸は説明する。

 

次に天皇制の正当性についてそれが歴史的根拠によっており、その王の称号はその家系から一度も離れず、誰も疑問を示さず、そして服従は自発的であった、と説く。そして国体はその歴史性を根拠にしているので法学上の弁明を必要としないことを中野登美雄政治学者の分析を紹介する事で示す。

 

中野博士は立憲君主的政体を三種に分類している。

1)議会制君主体制 イギリス、スペイン、イタリア

2)人民主権の原則を持つ君主体制 ベルギー

3)立憲君主体制 革命前のドイツと日本

 

そして、日本憲法専制君主的性格は、中野博士に寄れば封建制度廃止後国内に不満分子がいたこと、それゆえ国の分裂のおそれがあったこと、外国からの攻撃に対して統一戦線が必要で、強力な中央集権政府が必要であった事が要因。民衆に根付いた歴史伝統を持つ皇室であったのだ。

 

日本の憲政思想は「御誓文」に政治思想として始めて見られた。新渡戸は代議政治の動きを知らなかった日本で、自由思想が当時の新体制を率いた若者たちの心をとらえた事を不思議に思う、と記している。そして「御誓文」の第一条の「公論」について議論している。新渡戸は明治の新体制は、驚くような主義が組み込まれる必要があり、専制的であってはならなかった事は確かであると明言する。

 

日本の憲政実験の初期は英米思想が優先であった。天皇は日本にふさわしい憲法を作るためトッドの「イギリスの議会政治」を手引書として元老院に渡したと言う。新渡戸は当時モンテスキューやルソーよりイギリス思想が日本に広まっていた事は幸運であったと記している。ジョン・スチュアート・ミル、トーマス・アースキン・メイ、ジョン・オースティン(以上英国の法学者)が憲政思想の水先案内人であり、後にグナイスト、ローレンツ・フォン・シュタイン(ドイツの法学者)と知り合いになった。

議会に期待し裏切られた士族の中に不満分子が生まれ叛逆、処罰されるものが出て来た。政党の結成こそが反乱、内紛、暗殺の唯一の代わりであると少数の政治家たちは確信した。

 

(以上、『日本-その問題と発展の諸局面』181−189頁)