今回で31回続いた新渡戸稲造の『日本-その問題と発展の諸局面』を天皇制を中心になぞるブログは終了したい。
読者がいる、と思えばこそ続いたのでありおつきあいいただいた皆様には感謝したい。
さて、最終回は、本書の最終章 「第七章日本人の思想生活」である。
神道、仏教、中国古典、武士道、キリスト教が取り上げられている。
天皇制を中心にまとめているのでここでは神道だけを取り上げたい。
「すなわちイワシの頭でもしかるべき誠心と崇敬をもって信じれば、神たるに足り、..」(326頁)
新渡戸は、日本人の多神教の起源を議論する。
日本人が外交的で四囲の環境に敏感であり、高度に発達した群衆本能が共感をとぎすまし、自分の命すら直接四囲の環境に分け与えると、ある神官の言葉を引用して説明する。
「およそ人間の役に立ったものはなんでも、とくにその人がそのものを大切にし愛好しえいた場合には、その人の霊を分けもつものです。愛こそは生命であり力なのですから。」(327頁)
確かに私はボロボロになった鞄や手帳はなかなか捨てられない。何年も一緒にいて気持ちが通じているように思う。これって日本人特有なのであろうか?
神道は超道徳的で、禁欲という事がなく、神道の神々はローマ人の神霊に近いだろうと。ここで「惟神」が出てくる。カンナガラはルソーのエデンの園に近いだろうが、タブーが山程ある。
そして神道は皇室の祭式ではあるが、国家宗教ではない、と。これは第十代天皇崇神の代に、宗教と政治、教会と国家が分かれたことに由来する。
太子の尽力によって神道は仏教と共存する事となったが新渡戸は
「しかし両部は貴賎通婚的結合であって、おそかれ早かれ解体する運命にあった。この方策の下では、尻に敷かれた亭主のように、鼻面とって引き廻され(中略)生殺しにされた。」と指摘。(333頁)
神道がそんな状況にあったのを始めて知った!そして神道が復活するのは十八世紀の古代国史の研究によってである。
明治維新以降の復古後10年は神道にとって黄金時代であった、と新渡戸は説く。しかしその実験は神道側の力不足のため民衆から見放されてしまったのだ。長い間尻に敷かれた亭主の復権は容易ではない、という事だ。
他方、神道研究が進む中で、新渡戸は「愛国心に訴える宗教は、それ自身の目的を損う。」と指摘し、カエサルを引いて「神は絶対に地上の所有を貪りたまわない。」と。
さらに、考古学と言語学が神道からその神聖を奪い取るであろうが、神話の矛盾を一掃することで、狂信や迷信をあてにせずすみ、世界宗教の中で地位を得るであろうと説明する。
最後に新渡戸は神道を以下のように定義している。
ー 神道の本質は教義ではない。
ー 神道は宗教や世界観でさえない。
ー 長命を保った一国民の人間記録である(天皇のことか?)
そして新渡戸は古代信仰である神道の通俗かつ学術研究が進む事は、日本の学問の未来、古代の人生観の提示、そして暗黒奇怪(ストーンヘンジ等)なテーマを世界知識に寄与する という3点で歓迎すべき、と結んでいる。(西洋学問、思想、哲学を知り尽くした新渡戸はその限界も知っていたに違いない。)
やっぱり神武東征の旅やオーストロネシア語族の研究は重要なんだ。