「日本文化の講義」新渡戸稲造全集第19巻より

新渡戸稲造が死の直前に行ったIPRー太平洋問題調査会バンフ会議の演説草稿が、新渡戸稲造全集第19巻に納められていると知って手にした。

この草稿は国際連盟脱退を日本が表明した1933年3月27日から約半年後の1933年8月のものである。

草稿には天皇陛下の連盟脱退時の詔書(*)が引用されている。

実際に発表された演説では詔書が示されただけであるが、新渡戸の演説のポイントはそこにあるように思う。即ち天皇陛下のメッセージを当時の米国の外交政策機能を果たしていた「太平洋問題調査会」に伝えに行ったのではなかろうか?

新渡戸稲造はこのIPR会議の直後同会議が開催されていたカナダのバンクーバーで客死する。

 

さて、このIPRの新渡戸稲造の演説は全集19巻の『付録』として掲載されているのだ。

本文は、というと前年1932年、新渡戸稲造が、米国の人種差別法(1924年)に反対し二度とその地を踏まないと宣言した米国を回って行った下記の19の講演の記録である。

満州事変後、中国のプロパガンダ反日色が強くなる米国対策である。

 

第一章 日本民族

第二章 日本が中国に負うもの

第三章 日本とヨーロッパの封建制度

第四章 日本の鎖国政策

第五章 日本の開国と外国貿易

第六章 日本の大憲章

第七章 旧い日本の道徳観念

第八章 日本人の名誉観ー武士道

第九章 日本人の宗教的な観念

第十章 日本におけるキリスト教

第十一章 日本の詩歌

第十二章 日本の家族生活

第十三章 日本における地方の生活

第十四章 経済的および財政的な諸問題

第十五章 満州問題と日中関係

第十六章 日本、国際連盟および不戦条約

第十七章 日本と米国

第十八章 日本における教育

第十九章 日本人の国民的特徴

 

各章は、新渡戸稲造が米国訪問中に大学などで行った講義の原稿で、それほど長くなく、また話言葉であるので容易に読める。

やはり中身が衝撃的なのである。そして世界での反日活動が未だ止まない「現在」に重なって見えるのだ。

 

特に「第十五章 満州問題と日中関係」は記しておきたい。

この中で一番衝撃的だったのが日本外務省の無策である。

1931年の満州事変を巡る、ジュネーブにあった国際連盟内の動きを、新渡戸稲造はしっかり把握している。

 

新渡戸稲造全集第19巻』2001年発行、273頁より

「一方、日本の代表は、職業外交官であった。彼は、発言する事を許可されていない事柄に関しては、一切語らぬものであった。彼は、ある問題について回答する時、それが事実に裏打ちされていない限り、答えを出さなかった。」

 

この現象に関しイギリスのセシル卿の言葉も新渡戸は引用している。

 

「一方の代表【日本】が、もっと多く発言し、他方の代表【中国】が、発言をもっと控えていてくれたならば【われわれ】は事の真理に、もっと迫る事ができただろうに」

 

日本外務省の無策は今に始まった事ではなかったのである。

これはショックだった。

 

なお同章には、中国の米国でのプロパガンダ活動や、満州事変に至中国の挑発活動についても明記され、それを英仏が理解し日本を擁護していた事、しかし中国の情勢を知らない連盟に加盟した小国の数の力で(これも今に共通した現象で思わず唸った)日本が国際連盟で不利な立場に経たされた事、さらにこの問題の本質がソ連共産主義にある事等が書かれている。

 

新渡戸稲造の件は、『南洋群島の研究』を表した矢内原忠雄を通して知り、この1年つまみ食いのように読んできた。

戦後70周年の近現代史研究の中で、きっと誰か専門家が総括するだろうと期待していたのだ。

ところが、日本の植民政策の理論を構築し、実施してきた新渡戸稲造が、ほとんど語られていない(当方が見逃しているだけかもしれない)ようで、どうにも不思議でならない。

新渡戸稲造は1932年に軍閥批判をして命も狙われていた、というから彼の言動はある程度の中立性があるのではないだろうか?即ち貴重な一次資料のはずだ。

 

それから、IPRー太平洋問題調査会。

以前から気になっていた組織である。

コミンテルン反日活動母体であることを江崎氏の講演でやっと知る事ができた。

新渡戸稲造は当然この組織の実体を見抜いていたのであろう。なので命を削ってまでカナダへ渡ったとしか考えられない。

新渡戸稲造が亡くなった1933年、同調査会の首謀者でソ連のスパイであったEdward Clark Carterは事務局長に昇格している。

 

* http://www.geocities.jp/kunitama2664/renmei_dattai.html

『国際聯盟脱退ノ詔書』(昭和8年3月27日:原文)

朕惟フニ曩ニ世界ノ平和克復シテ国際聯盟ノ成立スルヤ皇考之ヲ懌ヒテ帝国ノ参加ヲ命シタマヒ朕亦遺緒ヲ継承シテ苟モ懈ラス前後十有三年其ノ協力ニ終始セリ

今次満洲国ノ新興ニ当リ帝国ハ其ノ独立ヲ尊重シ健全ナル発達ヲ促スヲ以テ東亜ノ禍根ヲ除キ世界ノ平和ヲ保ツノ基ナリト為ス然ルニ不幸ニシテ聯盟ノ所見之ヲ背馳スルモノアリ朕乃チ政府ヲシテ慎重審議遂ニ聯盟ヲ離脱スルノ措置ヲ採ラシムルニ至レリ

然リト雖国際平和ノ確立ハ朕常ニ之ヲ冀求シテ止マス是ヲ以テ平和各般ノ企図ハ向後亦協力シテ渝ルナシ今ヤ聯盟ト手ヲ分チ帝国ノ所信ニ是レ従フト雖固ヨリ東亜ニ偏シテ友邦ノ誼ヲ疎カニスルモノニアラス愈信ヲ国際ニ厚クシ大義ヲ宇内ニ顕揚スルハ夙夜朕カ念トスル所ナリ

方今列国ハ稀有ノ政変ニ際会シ帝国亦非常ノ時艱ニ遭遇ス是レ正ニ挙国振張ノ秋ナリ爾臣民克ク朕カ意ヲ体シ文武互ニ其ノ職分ニ恪循シ衆庶各其ノ業務ニ淬励シ嚮フ所正ヲ履ミ行フ所中ヲ執リ協戮邁往以テ此ノ世局ニ処シ進ミテ皇祖考ノ聖猷ヲ翼成シ普ク人類ノ福祉ニ貢献セムコトヲ期セヨ

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<読みくだし文>

朕(ちん)、惟(おも)うに、曩(さき)に世界の平和、克復(こくふく)して、国際聯盟の成立するや、皇考(こうこう)、これを懌(えら)びて帝国の参加を命じたまい、朕、また遺緒(いしょ)を継承して、いやしくも懈(おこた)らず、前後十有三年、その協力に終始せり。

今次、満洲国の新興に当り、帝国はその独立を尊重し、健全なる発達を促すをもって、東亜の禍根を除き、世界の平和を保つの基なりと為す。しかるに不幸にして、聯盟の所見、これを背馳(はいち)するものあり。朕、すなわち政府をして慎重審議、遂に聯盟を離脱するの措置を採(と)らしむるに至れり。

然(しか)りといえども、国際平和の確立は、朕、常にこれを冀求(ききゅう)してやまず、これをもって平和各般の企図は、向後また協力して渝(かわ)るなし。今や聯盟と手を分ち、帝国の所信にこれ従うといえども、もとより東亜に偏して友邦の誼(よしみ)を疎(おろそ)かにするものにあらず。いよいよ信を国際に厚くし、大義を宇内(うだい)に顕揚(けんよう)するは、夙夜(しゅくや)朕が念とする所なり。

今まさに、列国は、稀有(けう)の政変に際会し、帝国また非常の時艱(じかん)に遭遇す。これ正に挙国振張の秋(とき)なり。爾(なんじ)臣民、よく朕が意を体し、文武、互いに、その職分に恪循(かくじゅん)し、衆庶(しゅうしょ)、おのおのその業務に淬励(さいれい)し、嚮(むか)う所、正を履(ふ)み、行ふ所、中を執(と)り、協戮(きょうりく)、邁往(まいおう)もってこの世局に処し、進みて皇祖考(こうそこう)の聖猷(せいゆう)を翼成(よくせい)し、普(あまね)く人類の福祉に貢献せむことを期せよ。

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<現代語訳>

 余がかえりみるに、先般、世界が戦争を克服して平和を回復し、国際連盟が成立するとともに、父帝(大正帝)は、加盟を選択され、大日本帝国の参加をお命じになり、余もまた父帝の遺業を継承して、いやしくも怠ることなく、かれこれ十三年間、連盟への協力に終始してきた。

 今回、満洲国を新たに興したことにつき、帝国は、その独立を尊重し、健全なる発達を促すことで、東アジア域の災いの種を除き、世界の平和を保つ基礎となした。ところが、不幸にして、連盟の(満州国に関するリットン調査団による)所見には、道理にそむくものがある。余はそこで、政府に慎重に審議させ、遂に連盟を離脱するという措置をとらせることになった。

 そうではあるけれども、国際平和の確立は、余が常に求め願ってやまないものであるし、離脱したからといって、平和のための各分野での(国際連盟の)企図には、今後も協力して変わる事はない。今や連盟と手を切り、自帝国の意思に従うことになったけれども、もとより東アジア域に偏って、他国との友邦のよしみを、おろそかにするつもりはない。(それどころか)いよいよ国際的に信頼を厚くし、大義を世界じゅうに明らかに掲げることは、早朝から深夜まで(寝ても覚めても)余の念願とする所である。

 今まさに、列国は、稀有(けう)の政変に遭遇し、帝国もまた非常なる時代の難関にぶつかっている。これはまさに国を挙げて国威を拡張する時である。汝臣民、よく余の意を体し、文官・武官・官吏たちは、互いにその職務に精勤し、庶民は、おのおのその業務に勉め励んで、判断は正義をもとに、行動は中道をゆき、多くの心と力をあわせて邁進することによって、この時代に対処し、積極的に祖父帝(明治帝)の大いなる御遺志の成就を助け、普遍的な人類福祉への貢献を期せよ。