韓国の事は相変わらず関心湧かないが、関心がある矢内原忠雄が『朝鮮統治の方針』を著しており、「少なからず朝鮮の人々より感激と感謝とを以て報ひられた。」(矢内原1963: 538)と自ら書いている。
以前ザッと読んだが、再読した。
多分そこに日本の植民地運営の問題が、また現在韓国が執拗に繰り広げる反日の要因が書かれているのではないか、と思ったからだ。
朝鮮は1919年独立万歳事件が発生し流血の惨事となった。
これによって日本の朝鮮統治は武断主義から文治主義となった。
しかしこの文治主義は民衆の文化的欲望を向上させた。
「旅行の誘惑、文明品の誘惑、朝鮮人は如何にしてこの欲望を満足する事が出来るのか。自己の財産を売ることによりて。」(矢内原1963: 728)
「朝鮮人の経済的欲望は向上した。しかし欲望満足の手段は之に伴わない。彼等の生活程度は或は進歩したであろう。しかし生活の不安はさらに増加した。而して交通の進歩、貿易の発展、法治制度の完備、教育衛生の施設、産業の開発、事業経営の資本主義化、すべて之らの文化的政治の実行が朝鮮人に与へたる経済的影響は決して無条件に良好なるものではない。否却って或意味に於いては朝鮮人今日の経済的不安は文化政治の結果であると言い得る。」(矢内原1963: 729)
この経済的要因が1926年の民衆の暴動の動きに繋がった。しかし背景にあったのは共産主義である、と矢内原は述べる。
「而して此度の事件は共産主義的色彩が中心となり、之が民族主義者と提携し、全鮮赤化の主義によって民族運動の目的を達せんことを期したるものの如くである。大正八年の独立万歳事件の際は米国大統領ウィルソンを精神的後援とせる民族自決主義の運動であったが、今回は労農ロシアを後援と頼む共産主義的民族運動であった。」(矢内原1963: 727)
多分こういう史実は朝鮮や植民研究をしている人には常識なのであろうが、矢内原、新渡戸をここ2、3年しか勉強していない、しかも片手間にしか勉強していない当方にとっては驚く内容である。
矢内原はこの朝鮮問題を分析するだけでなく、
「朝鮮統治の責任を負担せる我国人の一人として、その統治方針は何処に目標を置くべきかの問題に関し、私も亦所見を陳ぶるの義務を感ずる。植民政策研究の一学徒としての義務が之を強める。」(矢内原1963: 730)
として朝鮮は分離独立しないであろう、と述べつつ仮に分立独立しても日本国民の名誉ではないか、と下記のように述べている。
「仮に自主朝鮮が全然日本より分離独立を欲するとしても、そのことは日本にとりて甚だしく悲しむべきことであるか。道を以て領有関係が平和的に終了せられたる場合には、其後の友誼的関係の維持が期せられ得る。仮に朝鮮が我国より分離したとて、当然に我国の敵国たるものではない。
第三に、かの李朝以来疲労困憊せる朝鮮が、我国統治の下に於いて活力を得、独立国家として立つの実力を涵養することを得ば、之れわが植民政策の成功であり、日本国民の名誉ではないか。朝鮮統治の責任を完全に果たしたるものとして満足すべきではないか。」(矢内原1963: 742-743)
当時朝鮮の人々に感謝された同論文は日本ではどのように受け止められたのであろうか?
矢内原忠雄は1961年に亡くなっている。
もし生きていれば現在の日韓関係をどのように分析し、何を提案するのであろうか?
明日は以前読んだ下記の論文を再読したい。
「矢内原忠雄の植民政策の理論と実証」
矢内原勝
三田学会雑誌 (Keio journal of economics). Vol.80, No.4 (1987. 10) ,p.285(1)- 309(25)
参考文献