矢内原忠雄の文章を読みながら、膨大な矢内原を対象とした研究も少しずつ読んでいる。
しかし、多くが東京裁判史観、そして植民研究に関連しては矢内原のキリスト教との関連に集約されているような「気」がしている。勘違いかもしれない。
そんな中で、矢内原忠雄のご子息矢内原勝氏が書いた下記の論文はとても参考になった。
「矢内原忠雄の植民政策の理論と実証」
(1987.10)、三田学会雑誌80巻4号
矢内原忠雄の植民地研究が概観されている。
新渡戸稲造との関係、アダムスミスの植民論の影響、そしてフィールドスタディを重視しようという姿勢が南洋群島の研究と繋がっている、という話だと思う。
以前読んだ時とまた違う感想を持った。
この論文の中で、
「研究室の火災の際、矢内原忠雄が?集した各国植民地関係の資料もすベて消失したので, 彼はいよいよ植民政策研究放棄の決意を固めたのである。」(p24(308))
とある。しかし戦後矢内原は
「東大での国際関係学科の創設, 国際関係論, 国際政治経済論, 国際政治論の講義担当」(p21(305)
している。植民研究の成果はここに繋がっているのではないか?
矢内原忠雄の植民研究がキリスト教との関連で語られていることと同時にアダムスミスの植民論を知らずに矢内原、新渡戸の植民論の研究がされているような「気」がだんだん強まっている。
次回は下記の論文と「シオン運動に就て」を読みたい。