「矢内原忠雄全集第一巻」にある植民政策の新基調の中に「シオン運動(ユダヤ民族郷土建設運動)に就いて」が納められている。
新渡戸稲造の国際連盟事務局次長が1919年に任命されて、急遽東大の新渡戸の後釜に指名されたのが矢内原で、2年の国外留学を命じられ、帰ってきた頃、1923年に書かれた論文である。
パレスチイスラエル問題は、太平洋島嶼国にも無縁ではないがあまり関心が湧かず、何もわかっていない。が矢内原の論文は面白かった。
矢内原がこの論文を書いた1923年はまだ民族衝突が起る前の希望に満ちた時であったようだ。
矢内原はシオン運動に興味をもった理由を2つあげている。
「シオン運動が私の興味を惹く一つの点はその非資本家的営利主義的非搾取的植民事業にあり、資本主義的植民の行きつまらんとする今日、特に注目に値する処である。もう一点はユダヤ民族の復興たる点にある。」(矢内原1963:531)
1800年代後半からロシア、ルーマニアに住んでいたユダヤ人の迫害が過酷になり、特にポーランドは酷かった事を矢内原がニューヨークに向かう船で同船したポーランド系ユダヤ人から確認している。
「併乍ら私が1922年末ヨーロッパより紐育に向かう船中同船せる多数のポーランド系ユダヤ人が異口同音に其憎悪的差別待遇を呪い、旧ロシア、ドイツ、オーストリア帝政のいづれも現ポーランド政府よりは寛大なりしと言ひ、一日も早くポーランド国の滅亡を希望せる事により、之を新興国に縷々見る処の排他的民族主義と思ひ合すれば、ポーランドに於けるユダヤ人が如何なる運命の下にあるやを想像するに難くない。」(矢内原1963: 548)
また矢内原はユダヤ人が多民族に同化していれば当時のユダヤ人問題はなかったし、それだけでなく
「然るに彼らの死亡率は低く、繁殖力は増大であり、その社会的経済的活動の能力についても定評がある。」(矢内原1963: 551)
と書いている。それゆえに少数異種民族が競争力を持って自分たちの土地に存在する事が問題となった、のであろう。
そして、シオン運動を可能にしたのがベルサイユ会議で合意された「委任統治」制度であったのである。
矢内原は希望に満ちたコメントを至る所の書いている。例えば。。
「将来中央アジア小アジア地方の発展に伴い、パレスチナが再び国際交通上の重要地点を占むるべきは、恐らくは私の空想に止まらないであろう。果たして然らばパレスチナのユダヤ人植民地にも繁栄の将来が横たわって居るものと言い得よう。」(矢内原1963: 577-578)
矢内原忠雄、留学を終え東大に就職した数年後、30才の時の感想である。