稲村公望さんと私の関係

稲村公望さんの新渡戸に対する誤解があまりにも酷いので立ち上げたブログですが、最初からアクセル踏みすぎると息が続かなそうなので、ゆるゆるやります。

稲村さんと私の関係ですが、90年代、稲村さんが郵政官僚の時、不正腐敗の温床だった笹川平和財団で、私が一人で太平洋島嶼国の情報通信事業を立ち上げODA まで持ってこれたのは、奄美大島出身の稲村さんが離島には通信が必要であるとの哲学を示してくれたからなのです。私の一つ目の博士論文はこのことをまとめました。

笹川平和財団は、笹川陽平すら太平洋島嶼国とは?通信とは?何も知らないし、関心もなかったのです。今思うと旧運輸省利権とは関係なかったから当たり前です。

そんなこともあり、そこら辺のバカ親父が新渡戸を誤解していても気にもしませんが、30年の付き合いになる稲村さんに、しかも東大出の元官僚である稲村さんに新渡戸を誤解したまま情報を発信して欲しくない、のです。

1933年バンクーバーで亡くなった新渡戸は日米両国から誤解されたままでした。誤解は今でも続いています。私もいつまで生きられるかわからないし、砂漠に一滴落としてみます。

新渡戸と柳田の関係

f:id:yashinominews:20200305201515j:plain

早速だが稲村さんがおもいっきり思い込みで誤解しているのが柳田との関係。論文や本も出ています。

柳田に地方の、すなわち民俗学の道を開いたのは新渡戸なのです。

引用します。

村松玄太、「近代日本における地方の思想に関する一・考察新渡戸稲造柳田國男の地方観を中心に」『政治学研究論集』明治大学大学院 (第15号),69-83頁 2001

「そして,柳田の地方像の形成に大きな影響を与えた点で注目されるのが,新渡戸稲造(1862-1933)の農政学である。新渡戸は農政学の立場から「地方(じかた)学」を提唱し,柳田が郷土研究に向かうきっかけを作った。」

「1907年に報徳会で行われた新渡戸の講演「地方学の研究」を,当時34歳の法制局参事官であった 柳田は聴いている25。柳田がこの講演にどのような感銘を受けたかは,書き残されたものが存在しないため,明らかにはならない。しかしおそらく柳田は,この新渡戸の講演と,彼の提唱する「地方学」に大きな関心を持っていたことであろうことを,いくつかの傍証によって明らかにすることができる。」

注には柳田が新渡戸から影響を受けたことに関する先行研究が書かれている。

「新渡戸の地方学の柳田への影響については,浩潮なものを含めていくつかの研究が提出されている。その先駆的な指摘は橋川文三柳田国男 その人間と思想』(1964年)(前掲著作集2巻所収)である。橋川は日本にお いて,地方研究の視野を含んだ最初の農政学的考察であった新渡戸の『農業本論』に,柳田がおそらく強い感 銘を受けたであろう事を指摘している。橋川は「明治政治思想の一断面」(1968年)(前掲著作集3巻所収)でも新渡戸の「地方学」の影響を指摘している。後藤総一郎は,新渡戸の「地方学」を詳細に辿り,柳田への地 方学の影響を考察した(「地方学の形成」(1975年)『柳田国男論』恒文社,1987年所収)。また蓮見音彦は「新 渡戸博士の農業論」(東京女子大学新渡戸稲造研究会編『新渡戸稲造研究』春秋社,1969年所収)において, 新渡戸の農業論を明治農業論の一系譜として位置付けた上で,その農政論が民俗学に影響を与えたことを指摘している。」

新渡戸のラフカディオ・ハーン批判

『日米関係史』(1891年)が納められている、新渡戸稲造全集17巻(2001年、教文館)に『日本国民』も収められ、その付録に「太平洋に平和を」という新渡戸が1911年にルランド・スタンフォード・ジュニア大学での講演記録がある。

 

20年前に書いた『日米関係史』の中で、既に新渡戸は、日本人移民が増加すれば、中国人排斥法が日本人にも影響するだろうと書いているがまさにその通りになったようだ。

 

この講演の中で興味深いのが新渡戸がラフカディオ・ハーンを批判している箇所である。長くなるが引用したい。

 

「日本をアメリカから疎外しようとして提示されたすべての理由の中で、アメリカ人全般にこれまで最も心配と思われた理由は、日本人は同化できないという主張です。ラフカディオ・ハーンは「人種対立主義」という語を流行らせました。それは、日本人は心理的にはるかに隔たっているので、あなたたちが日本人を西洋の知識で教育すればするほど、日本人は思想上あなたたちから遠くそれてゆく、という信念です。ハーンは日本人の性質に対してすばらしい洞察力をもってはいましたが、またおそらく、日本的事物に対する彼の熱心のあまり、日本人を独特の民族と見えさせれば日本民族の奉仕していることになる、と考えたのかもしれません。そしてハーンの意見は、それをわれわれに面と向かって突き付けて責める多くの人たちに反響しています。不幸にも、我々のあいだにはとほうもない熱狂的愛国者がおり、それは他のどこでも同じですが、彼らは世界の他のものと違っている事を自慢し、ちょっとした相違を大げさに言い、西洋諸国がたどる道からはなれることを主張し、特発症疾患を生来の力と同視し、そのようにして、国民の短所を国民的美徳に高め、わざと自らを高しとしています。」(290頁)

 

今でもいるような気がする。ハーンみたいな外国人とそれに共鳴する日本人。

『日米関係史』ー1891年

毎日のようにトランプ大統領のニュースが氾濫し、イヤでも米国の様子が伝わってくる。

米国、日米関係と言えば新渡戸稲造で、彼がウィルソン大統領と机を並べたジョンズホプキンス大学への3年間の留学の成果とし執筆した論文『日米関係史』があることは知っていた。

新渡戸稲造全集17巻(2001年、教文館)に『日本国民』という1912年に出版された論文と共に納まっている。

 

日米関係史は下記の5章からなる。

第一章 ペリー提督以前の外国との交渉

第二章 ペリー提督とその先行者たち

第三章 外交と通商

第四章 日本におけるアメリカ人およびアメリカの影響

第五章 アメリカにおける日本人

 

この中で何点か印象に残った部分を書き留めておきたい。

 

あの不平等条約の背景である。

長州武士の軽はずみによる下関賠償事件が、即ち困難に遭遇している日本に対し、抜け目のないキリスト教4カ国が強奪の知恵を働かせ商業上の利益を引き出した。(433−434頁)

 

そして付箋がはがれてどの頁かわからないが、このペリーの船に乗って来た水兵が日本で「力車」を開発したのだそうである!

 

ペリーが来日した時に持っていた数々の品が紹介されているのだが、そのなかで新渡戸が一番重要と記しているのが電報用機材と鉄道列車の小型模型。通信と交通である。(466頁)後藤と新渡戸が会ったのはいつか?

 

ピジンイングリッシュ! このピジンという言葉の由来に諸説接したが新渡戸の説明は興味深い、というかこれが正解なのでは?「ビジネス」の中国式発音からきたもの、とある。(505頁)

 

そして米国への日本からの初期のある留学生の目的が「ヨーロッパ列強から日本が占領されるのを防ぐために、”大型船”を作り、”大砲”を作る技術を学ぶこと」(539頁)

新渡戸は米国の学問に満足できずドイツに渡りそこで博士論文を書く。日本の軍事技術も、多分、米国ではなくドイツから多くを学んだのではないだろうか?

柳田國男と国際連盟

柳田國男全集26 大正十一年~ ─大正11年・大正14年』

には、柳田が聯盟事務局で委任統治委員を務めた貴重な記録が残っている。

 

ウィルソンの掲げた世界平和がどれほど無意味なものか、

欧州人の戦闘的性格、有色人種を人とも扱わない態度、

ロシア革命後の元貴族の悲惨な最後 等々、新渡戸との決裂がなくとも、柳田が早々に欧州から逃げてきた気持ちがわかるような文章ばかりだ。

 

日本の委任統治にも柳田は否定的だ。

外国人への批判には、日本を代表して弁明に務めているが、国内向け私信には、日本の委任統治報告書の不備を指摘している。

聯盟の委任統治について論文を書いた矢内原と柳田はどこかで接点があったのであろうか?矢内原文書中で柳田に触れている箇所はまだ見た事がない。

 

逆に、このようなネガティブな欧州文化の中で、新渡戸は何を根拠に事務局次長として頑張る事ができたのであろうか?と不思議に思った。

 

柳田研究の中で、この聯盟時代の研究はまだほとんどないようなので、調べてみる価値はあると思うが、時間ができたら挑戦して見たい。

柳田國男のニューギニア植民論(追記あり)

柳田國男が、新渡戸稲造と「地方」(ヂカタ)の研究をし、新渡戸の国際聯盟勤務に伴って、聯盟の委任統治委員会に新渡戸から呼ばれた事を昨年知った。

 聯盟の委任統治地域とは日本が統治、植民したミクロネシアの島々である。

 柳田國男全集をめくってみると、年代別の柳田の文章がまとめてある。

柳田がスイスの聯盟事務局へ赴いた1922年辺りを図書館で手に取った。

下記の26巻には貴重な情報が山程あるがこれは次回まとめる。

 

柳田國男全集26 大正十一年〜 ─大正11年・大正14年』

 

柳田國男全集27 大正十五年〜 ─作品・論考編 大正15年〜昭和3年』には戦争が始まった後の1942年の柳田のスピーチ原稿が収められており、そのタイトルに惹かれてて読んだ。

「太平洋民族学の開創 松岡静雄」、昭和17年5月23日、水交社における故松岡静雄氏追悼座談会記録

 1936年5月23日に没した松岡静雄は柳田の実の弟である。太平洋民族学の権威だ。

私はまだ彼の作品を読んでいない。しかしこの短いスピーチから柳田と松岡の太平洋に関する議論がどんなものであったか知る事ができる。この実の兄弟は最後は袂を分ったようだ。

驚いたのは、柳田が戦争開始後の1942年にニューギニアを日本にしよう、と訴えている事だ。世論を喚起して欲しいとこのスピーチを結んでいる。それが弟、松岡の気持ちでもある、と。

松岡は生前オランダと組んで日蘭通交調査会を立ち上げていたのだ。

考えてみれば、あの当時、ましてや植民主義者の新渡戸門下で、しかも聯盟の委任統治委員であった柳田が植民に反対する立場のわけないが、こうやってはっきり、しかも戦争が始まってすぐにニューギニアの北部とオランダ領西部を日本にしよう、と言っているのは私には驚きである。

まさか、この柳田のスピーチで世論がひろまって、日本軍のニューギニア進行に影響があったのだろうか?

柳田全集を読んで行けば、敗戦後の彼の気持ちや、このスピーチでは否定的な日本人南方説(新渡戸が支持していた説)を扱った『海上の道』を晩年に書いた背景もわかるかもしれない。

いや、柳田研究の中で、誰かが既に調べてくれていると嬉しいのだが。

<追記>

このブログを読まれたパプアニューギニア在住の日本人の方から連絡があった。

「ここの人はみんな日本が戦争に勝ってたら良かったって言うのですが。」即ち先の大戦で日本が勝手いれば日本の統治下になったわけで、その方がよかった、と。

リップサービスではないのですか?と聞いたら大多数の本音です、との返事。

これは柳田と松岡に聞かせたい。

柳田國男と国際聯盟委任統治委員会

 

柳田國男が国際聯盟委任統治委員会委員であったことを昨年位に初めて知った。

しかも新渡戸のアレンジである。

しかも新渡戸とどうやら決裂したらしい。

柳田の郷土研究は新渡戸の地方(ヂカタ)の研究が基盤になっているのだ。

柳田は新渡戸の背中を見て歩いて来たのだ。

 

 

昨日年内最終日の図書館に駆け込んで柳田全集をめくってみた。

メモだけ。

 

 

まずは益田勝実氏編集の本にある「ジュネーブの思い出」だが、ここに多分益田氏の文章だと思うが前文が掲載されていて、柳田の国際聯盟行きが新渡戸の要望であった事が述べられている。この文章によるとジュネーブに入ったのが大正10年6月10日頃で、大正12年9月1日関東大地震の報をロンドンで聞いて帰国。そのまま戻らず。即ち柳田が国際聯盟に勤務したのが3年弱。

 

現代日本思想体系 29 柳田国男

編集 益田勝実、1967年 筑摩書房

353−360頁「ジュネーブの思い出 初期の委任統治委員会」

多分益田勝実氏による前文あり 

貴族院書記官長を辞して、旅を続ける柳田へ、新しく創設された国際連盟委任統治委員会委員就任の要請が届いた。聯盟事務次長新渡戸稲造のたっての願いだった。回想は1946年11月の『国際連合』創刊号掲載。」

 

 

 

次が最新版の全集だ。全集後半は年代ごとにまとめられている。25、26巻が柳田のジュネーブ時代のものである。目次のタイトルだけで関連しているであろう項目をリストアップした。

 

柳田國男全集 第25巻 大正5年〜大正10年 2000年 筑摩書房

First Meeting held on Tuesday, October 4th, 1921 at 10 am 495頁

Sixth Meeting held on October 7th 1921, at 10 am      496頁

Seventh Meeting held on October 7th, 1921, at 4 pm     496頁

柳田委任統治委員会委員ヨリ山川部長宛  497頁

委任統治委員会二関スル柳田委員ノ報告(大正10年12月15日午後二時より於大臣官邸) 500頁

 

 

柳田國男全集 第26巻 大正11年大正14年2000年 筑摩書房

大正11年3月

Dear Mr Rappard 11頁

国際聯盟の発達  13頁

将来のチョコレート 18頁

第35回同人小集記 21頁

 

大正11年8月

Second Meeting held on Tuesday, 1st, 1922, at 4 pm   31頁

Twelfth Meeting held on Tuesday, August, 8th, 1922, at 10:30 am 31頁

山川端夫様 私信 32頁

 

大正11年9月

9月20日午前ノ聯盟総会ニテ   44頁

此冬何方ニマイルニシテモ  48頁

 

大正12年7月

Second Meeting (Private) held at Geneva on Friday, July 20th, 1923, at 3.30pm 55頁

Sixth Meeting (Private) held at Geneva on Monday, Juy 23rd, 1923, at 3.30 pm 55頁

Seventh Meeting (Private) held at Geneva on Tuesday, July, 24th, 1923, at 10 am 56頁

Eighth Meeting (Private) held at Geneva on Tuesday, July, 24th, 1923, at 3.30 pm 57頁

Ninth Meeting (Private) held at Geneva on Wednesday, July, 25th, 1923, at 10 am 58頁

Tenth Meeting (Private) held at Geneva on Tuesday, July, 25th, 1923, at 3.30 pm 58頁

Eleventh Meeting (Private) held at Geneva on Thursday, July, 26th, 1923, at 10 am 59頁

Fourteens Meeting (Private) held at Geneva on Saturday, July, 28th, 1923, at 10 am 60頁

Sixteenth Meeting (Private) held at Geneva on Monday, July, 30th, 1923, at 10 am 60頁

 

大正12年8月

Twentieth Meeting (Private) held at Geneva on Wednesday, August, 1st, 1923, at 3.30 pm 61頁

Twenty-First Meeting (Private) held at Geneva on Tuesday, August, 2nd, 1923, at 10 am 62頁

Twenty-Fourth Meeting (Private) held at Geneva on Tuesday, August, 24th, 1923, at 3.30 pm 62頁

Twenty-Eighth Meeting (Private) held at Geneva on Friday, August, 3rd, 1923, at 3.30 pm 63頁

Thirty-Second Meeting (Private) held at Geneva on Tuesday, August, 9th, 1923, at 3.30 pm 64頁

The Welfare and Development of the Natives in Mandated Territories 64頁

拝啓 委任統治常設委員会ハ  82頁

 

大正12年9月

土人の為めに正義を  86頁

 

大正13年9月

土人保護の事業  199頁

 

 

昭和38年以降の文章。即ち戦争に突入する直前。ここにジュネーブ時代の日記がある。新渡戸の名前が時々出て来る。日記を細かく見ていけば、新渡戸との関係が多少見えて来るかもしれない。

それよりも昭和17年、戦争開始後の柳田のニューギニア植民説が興味深い。これはコピーを取ってきたので、別の項目で紹介したい。柳田も植民主義者だった。そりゃそうかも。新渡戸門下だったのだ。

 

柳田國男全集 第34巻 昭和38年〜昭和62年 2014年 筑摩書房

昭和38年7月

端西日記 9頁

大正11年日記 196頁

太平洋民族学の開創 松岡静雄 

 昭和17年5月23日 水交社における故松岡静雄氏追悼座談会記録 399頁

ニューギニア植民、第二の日本にする、という話。面白い)