柳田を国際連盟委任統治委員に招いた新渡戸

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新渡戸が国際連盟の事務次長であった事実を日本人が知らない。

米国、ドイツ留学に加え、この留学で米国人のメアリー・エルキントンに見初められ結婚。米国留学中の同窓はあのウィルソン大統領である。

語学が堪能な上に台湾植民の実績もある。台湾からの帰国後は第一高等学校長、東京帝国大学農科大学教授の職につく。青年の育成と共に植民政策、と言っても現在の国際政治、経済開発学に近い研究も深め、日韓併合伊藤博文二時間にも渡って講義するなど政治的実績も積んでいる。

その新渡戸を「一大茶番劇を見に行こう」とパリ講和会議に誘ったのが後藤新平である。そのパリで新渡戸は日本を代表し国際連盟事務次長を後藤から推薦されてしまう。台湾開拓の道を示したのも後藤であるが、国際機関外交官、世界秩序構築の役割を示したのもまた後藤であった。

新渡戸は一人欧州に残り、連盟設立準備の中心的役割を果たす。ユネスコなどの関連組織も新渡戸のアイデアだ。(写真はアインシュタインも招いた知的委員会の様子)

旧ドイツ領の管理を巡って創設された委任統治という新たな枠組み。この委員会に貴族院書記官長を辞任したばかりの柳田を招いたのは新渡戸である。

皮肉にもこれが悲劇につながる。柳田は書く読むの英語はできたかもしれないが、会議で必要な会話能力が追いつかなかったのである。これは柳田自らが語っていることだ。それはそうだ。海外留学、米国人の妻、そして台湾での統治経験のある新渡戸と比べ、柳田にとっては初めて海外生活だ。語学だけではない。西洋人の人種差別や非西洋諸国、特に南洋諸島に対する不理解にも絶望する。弟の松岡静雄の南洋研究の影響も多分にあったであろう。柳田は国際連盟に失望し、突然帰国してしまう。そして新渡戸との関係も絶たれる。

この国際連盟での経験が、そしてドイツの民俗学の出会いが、それ以降の柳田の「民俗学」を決定し、形成していくことになるのだ。

以上、佐谷眞木人著『民俗学•台湾•国際連盟 ー 柳田國男と新渡戸稲造』を中心に自分の知見も加えまとめました。次回はドイツ民俗学ナチスとの関係を中心にまとめてみます。

稲村公望氏の新渡戸と柳田に関する誤解

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2015年に出版された『民俗学•台湾•国際連盟 ー 柳田國男新渡戸稲造』佐谷眞木人著を読んでからと思っていたが、本棚にまだ残していた。

私は90年代から10年ばかり八重山諸島を中心に「やしの実大学」という事業を地元の有識者達とたち上げ運営してきた。その中で、沖縄研究を中心に柳田やその周辺(即宮本常一、網野、谷川など)の「民俗学」はざっとだが読んでいた。しかし国際政治の現場と学問的議論を勉強する中で柳田の民俗学の限界を認識した。平たく言うと「可哀想な離島、寒村、僻地という視点では現実を議論し改善することはできない」と言う事だ。2017年一つ目の博士論文を書き終えた後、かなりの本を処分する中に柳田関連の本もあったのだ。

国文学者、佐谷眞木氏の本は2016年に読んでブログにも書いているが、昨日再読した。
https://yashinominews.hatenablog.com/entry/2016/04/08/051452

新渡戸は柳田と同じく農政学を修めている。台湾植民もその流れである。札幌農学校、米国、ドイツ留学で学んだだけではない。新渡戸の祖父、父は農地開拓者として明治天皇からも嘉賞を受けており稲造は理論だけでなく、現場からも学んでいるのだ。新渡戸が「地方(ジカタと読む)の研究」で主張した研究対象には台湾で行われた「旧慣調査」と同じく童謡や民話の収集も含まれていた。

その議論は柳田に民俗学の道を示したのである。33歳の柳田は1907年の新渡戸の講演を聞き強い感銘を受ける。柳田も神隠しなど伝承に関心があった事と専門の農政学が新渡戸の「地方の研究」によって結びついたのである。

柳田は明治40年頃自ら「郷土研究会」を開催していたが明治43年(1910年)から新渡戸邸で「郷土会」に引き継がれる。新渡戸が国際連盟事務次長として日本を離れた1919年までこの研究会は継続する。

1919年 ー 柳田が貴族院書記官長を辞任した年である。

新渡戸が国際連盟に柳田を招聘する話。そして柳田がドイツの民俗研究と接近し、ナチスとの関連など後2回位に分けて書きます。

稲村公望さんと私の関係

稲村公望さんの新渡戸に対する誤解があまりにも酷いので立ち上げたブログですが、最初からアクセル踏みすぎると息が続かなそうなので、ゆるゆるやります。

稲村さんと私の関係ですが、90年代、稲村さんが郵政官僚の時、不正腐敗の温床だった笹川平和財団で、私が一人で太平洋島嶼国の情報通信事業を立ち上げODA まで持ってこれたのは、奄美大島出身の稲村さんが離島には通信が必要であるとの哲学を示してくれたからなのです。私の一つ目の博士論文はこのことをまとめました。

笹川平和財団は、笹川陽平すら太平洋島嶼国とは?通信とは?何も知らないし、関心もなかったのです。今思うと旧運輸省利権とは関係なかったから当たり前です。

そんなこともあり、そこら辺のバカ親父が新渡戸を誤解していても気にもしませんが、30年の付き合いになる稲村さんに、しかも東大出の元官僚である稲村さんに新渡戸を誤解したまま情報を発信して欲しくない、のです。

1933年バンクーバーで亡くなった新渡戸は日米両国から誤解されたままでした。誤解は今でも続いています。私もいつまで生きられるかわからないし、砂漠に一滴落としてみます。

新渡戸と柳田の関係

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早速だが稲村さんがおもいっきり思い込みで誤解しているのが柳田との関係。論文や本も出ています。

柳田に地方の、すなわち民俗学の道を開いたのは新渡戸なのです。

引用します。

村松玄太、「近代日本における地方の思想に関する一・考察新渡戸稲造柳田國男の地方観を中心に」『政治学研究論集』明治大学大学院 (第15号),69-83頁 2001

「そして,柳田の地方像の形成に大きな影響を与えた点で注目されるのが,新渡戸稲造(1862-1933)の農政学である。新渡戸は農政学の立場から「地方(じかた)学」を提唱し,柳田が郷土研究に向かうきっかけを作った。」

「1907年に報徳会で行われた新渡戸の講演「地方学の研究」を,当時34歳の法制局参事官であった 柳田は聴いている25。柳田がこの講演にどのような感銘を受けたかは,書き残されたものが存在しないため,明らかにはならない。しかしおそらく柳田は,この新渡戸の講演と,彼の提唱する「地方学」に大きな関心を持っていたことであろうことを,いくつかの傍証によって明らかにすることができる。」

注には柳田が新渡戸から影響を受けたことに関する先行研究が書かれている。

「新渡戸の地方学の柳田への影響については,浩潮なものを含めていくつかの研究が提出されている。その先駆的な指摘は橋川文三柳田国男 その人間と思想』(1964年)(前掲著作集2巻所収)である。橋川は日本にお いて,地方研究の視野を含んだ最初の農政学的考察であった新渡戸の『農業本論』に,柳田がおそらく強い感 銘を受けたであろう事を指摘している。橋川は「明治政治思想の一断面」(1968年)(前掲著作集3巻所収)でも新渡戸の「地方学」の影響を指摘している。後藤総一郎は,新渡戸の「地方学」を詳細に辿り,柳田への地 方学の影響を考察した(「地方学の形成」(1975年)『柳田国男論』恒文社,1987年所収)。また蓮見音彦は「新 渡戸博士の農業論」(東京女子大学新渡戸稲造研究会編『新渡戸稲造研究』春秋社,1969年所収)において, 新渡戸の農業論を明治農業論の一系譜として位置付けた上で,その農政論が民俗学に影響を与えたことを指摘している。」

新渡戸のラフカディオ・ハーン批判

『日米関係史』(1891年)が納められている、新渡戸稲造全集17巻(2001年、教文館)に『日本国民』も収められ、その付録に「太平洋に平和を」という新渡戸が1911年にルランド・スタンフォード・ジュニア大学での講演記録がある。

 

20年前に書いた『日米関係史』の中で、既に新渡戸は、日本人移民が増加すれば、中国人排斥法が日本人にも影響するだろうと書いているがまさにその通りになったようだ。

 

この講演の中で興味深いのが新渡戸がラフカディオ・ハーンを批判している箇所である。長くなるが引用したい。

 

「日本をアメリカから疎外しようとして提示されたすべての理由の中で、アメリカ人全般にこれまで最も心配と思われた理由は、日本人は同化できないという主張です。ラフカディオ・ハーンは「人種対立主義」という語を流行らせました。それは、日本人は心理的にはるかに隔たっているので、あなたたちが日本人を西洋の知識で教育すればするほど、日本人は思想上あなたたちから遠くそれてゆく、という信念です。ハーンは日本人の性質に対してすばらしい洞察力をもってはいましたが、またおそらく、日本的事物に対する彼の熱心のあまり、日本人を独特の民族と見えさせれば日本民族の奉仕していることになる、と考えたのかもしれません。そしてハーンの意見は、それをわれわれに面と向かって突き付けて責める多くの人たちに反響しています。不幸にも、我々のあいだにはとほうもない熱狂的愛国者がおり、それは他のどこでも同じですが、彼らは世界の他のものと違っている事を自慢し、ちょっとした相違を大げさに言い、西洋諸国がたどる道からはなれることを主張し、特発症疾患を生来の力と同視し、そのようにして、国民の短所を国民的美徳に高め、わざと自らを高しとしています。」(290頁)

 

今でもいるような気がする。ハーンみたいな外国人とそれに共鳴する日本人。

『日米関係史』ー1891年

毎日のようにトランプ大統領のニュースが氾濫し、イヤでも米国の様子が伝わってくる。

米国、日米関係と言えば新渡戸稲造で、彼がウィルソン大統領と机を並べたジョンズホプキンス大学への3年間の留学の成果とし執筆した論文『日米関係史』があることは知っていた。

新渡戸稲造全集17巻(2001年、教文館)に『日本国民』という1912年に出版された論文と共に納まっている。

 

日米関係史は下記の5章からなる。

第一章 ペリー提督以前の外国との交渉

第二章 ペリー提督とその先行者たち

第三章 外交と通商

第四章 日本におけるアメリカ人およびアメリカの影響

第五章 アメリカにおける日本人

 

この中で何点か印象に残った部分を書き留めておきたい。

 

あの不平等条約の背景である。

長州武士の軽はずみによる下関賠償事件が、即ち困難に遭遇している日本に対し、抜け目のないキリスト教4カ国が強奪の知恵を働かせ商業上の利益を引き出した。(433−434頁)

 

そして付箋がはがれてどの頁かわからないが、このペリーの船に乗って来た水兵が日本で「力車」を開発したのだそうである!

 

ペリーが来日した時に持っていた数々の品が紹介されているのだが、そのなかで新渡戸が一番重要と記しているのが電報用機材と鉄道列車の小型模型。通信と交通である。(466頁)後藤と新渡戸が会ったのはいつか?

 

ピジンイングリッシュ! このピジンという言葉の由来に諸説接したが新渡戸の説明は興味深い、というかこれが正解なのでは?「ビジネス」の中国式発音からきたもの、とある。(505頁)

 

そして米国への日本からの初期のある留学生の目的が「ヨーロッパ列強から日本が占領されるのを防ぐために、”大型船”を作り、”大砲”を作る技術を学ぶこと」(539頁)

新渡戸は米国の学問に満足できずドイツに渡りそこで博士論文を書く。日本の軍事技術も、多分、米国ではなくドイツから多くを学んだのではないだろうか?

柳田國男と国際連盟

柳田國男全集26 大正十一年~ ─大正11年・大正14年』

には、柳田が聯盟事務局で委任統治委員を務めた貴重な記録が残っている。

 

ウィルソンの掲げた世界平和がどれほど無意味なものか、

欧州人の戦闘的性格、有色人種を人とも扱わない態度、

ロシア革命後の元貴族の悲惨な最後 等々、新渡戸との決裂がなくとも、柳田が早々に欧州から逃げてきた気持ちがわかるような文章ばかりだ。

 

日本の委任統治にも柳田は否定的だ。

外国人への批判には、日本を代表して弁明に務めているが、国内向け私信には、日本の委任統治報告書の不備を指摘している。

聯盟の委任統治について論文を書いた矢内原と柳田はどこかで接点があったのであろうか?矢内原文書中で柳田に触れている箇所はまだ見た事がない。

 

逆に、このようなネガティブな欧州文化の中で、新渡戸は何を根拠に事務局次長として頑張る事ができたのであろうか?と不思議に思った。

 

柳田研究の中で、この聯盟時代の研究はまだほとんどないようなので、調べてみる価値はあると思うが、時間ができたら挑戦して見たい。