『日本-その問題と発展の諸局面』(5)

新渡戸が亡くなる2年前、1931年に英文で出版した日本史をまとめた書籍の中から、皇室に関する部分を中心に書き出している。

 

二章 歴史的背景の第三項は「大陸文化の導入」では韓国と日本の歴史的関係の深さが書かれている。

「朝鮮は朝鮮人のため」という伊藤博文を説き伏せ日本人移民を進めたのが新渡戸であるという背景を知っているとこの部分は興味深い。

 

参考

「伊藤公」新渡戸稲造著『偉人群像』より

http://blog.canpan.info/yashinomi/archive/1304

 

 

キリスト紀元頃、我国の歴史がまだ漠然たる闇に包まれていたとき、中国は、”漢代”の最盛期で栄えていた。大陸文化が朝鮮を通って日本に入ってきたことは、あまりにも当然である。(中略)朝鮮人と日本人の間には、先史時代の両者間の頻繁な往来の原因としてであれ、その結果としてであれ、人種上、言語上、親近性があると想定できる。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、64頁)

 

そして3世紀には神功皇后により朝鮮南部は日本統治下となったが「日本は文化面で朝鮮にははかりしれぬほどの負い目があり、それは増大を続けた。」と述べている。それは貴重な品々、馬、知識、技術が何千人もの朝鮮人、中国人と共に日本に渡り定住し、特に大切なのは天皇の子息に外人教師を傭ったことであった、と述べる。(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、65−67頁)

 

学問は朝廷だけでなく、貴族にも広がり、漢字教育のために学校が建てられ、孔子唐王朝の政治制度も学んだ。中国の倫理思想に対する尊敬は広がったが、仏教の導入は敵対を招いた。

 

小学生の時、ゴミ屋と覚えた仏教伝来の話を40年後始めて知りました。

仏教を巡る蘇我氏物部氏の争いは教科書に任せておいて、新渡戸が指摘している部分をあげたい。

 

天皇は両側の議論を聞いて、仏像を新信仰の擁護者に与え、「それはあなただけで保っておけ、他の者には古い信仰を保たせよ。」と仰せられた。日本の宗教運動の歴史を通じて、キリスト教修道士の到来までは、この単純かつ明解な宗教的自由の宣明からそれることは決してなかった。」(『日本-その問題と発展の諸局面』新渡戸稲造全集第18巻、2001、67頁)

 

そして新渡戸は聖徳太子の話に入っていく。

 

 

さて、最後に面白い発見をしたのでこれも書いておきたい。

この本を和訳した佐藤全弘氏の訳注がついているのだが、天皇が仏教と神道を共存させたという新渡戸の主張は「言の通りでない。」、即ち「間違っている」と書いてある。それは、蘇我氏に仏像を与えた後疫病がはやったため、仏教導入を反対する中臣の言う通り仏像を焼くことを天皇が認めたという話があるから、ということらしい。(ちゃうんじゃない、という私の直感)

 

この件に関してウェッブサーフィンをしていたら面白い記述を見つけた。

明星大学の三橋 正教授の記述である。

 

「仏教公伝」とは?ー仏教の伝来と日本の神ー

ことばと文化のミニ講座、Vol.46, 2010.5

http://www.hino.meisei-u.ac.jp/nihonbun/lecture/046.html

 

新渡戸が取り上げた箇所はあまり研究がされていなかったが、この時代の「祭祀形態」と「神観念」が反映されている、というのだ。下記に引用する。

 

「従来の研究でほとんど取り上げられることはありませんでしたが、この「仏教公伝」記事で最も注目すべきは、欽明天皇蘇我稲目に仏像を託して試みに拝ませることにしたという部分だと思います。このことは、『上宮聖徳法王帝説』に「志癸嶋天皇(しきしまのすめらみこと=欽明天皇)の御代、戊午年(五三八)十月十二日、百済国主明王、始めて仏像・経教并びに僧等を度(わた)し奉(たてまつ)る。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興隆せしむる也。」とあることとも一致し、ある程度の真実を伝えていると思われます。そして、この一見奇異に見える仏像の礼拝を委託した天皇の態度に、この時代の祭祀形態と神観念が反映されてることを指摘したいと思います。

【新しい崇拝対称を迎える時、それまでの崇拝対称とオーバーラップさせるのは、どの時代のどの地域にも見られる現象です】」

 

 

天皇の、そして太子の見事なる異文化(しかも宗教!)の導入技術「委託祭祀」!

次は、敬虔な仏教者にして愛国者そして完全な漢学者「太子」による国家統合の話。