『日本-その問題と発展の諸局面』の「第四章政府と政治」の中にある 「四,立憲政治のための訓練」。
この後 「五、天皇の大権」、が続く。
「六、長老政治と枢密院」、「七、貴族院」、「八、選挙制度と政党心理」、「九、政党の現状」、の4節は省き、「十、日本の政治における自由な要素」 と「十一、来るべき改革」の 2つの節を取り上げたい。
改めて断っておくと、新渡戸に関してはここ1、2年読み始めたばかりだし、近現代史も、天皇制も、憲法の事も当方は何もわかっていない。1931年に新渡戸稲造英文で出版した『日本-その問題と発展の諸局面』をなぞっているだけにしても誤解が多々あると思う。もしこのブログを見ていただく方がいて、関心を持っていただけるのであれば是非原文を手に取っていただきたい。新渡戸稲造全集はどこの図書館にも揃えているであろう。
さて、「四,立憲政治のための訓練」
帝国憲法発布に先立つ十年、(1881-1890)急進派はフランスに近い民主憲法を、穏健派はイギリス憲法を基本と考えていた。政府は、伊藤は、相談した外国人顧問から右左の傾向が支配をしようと争っている中、確信した、とある。「大日本帝国憲法は、いや応なしに、その歴史意識に基づかねばならぬと。」(196頁)
以下、引用。
「ルソーの国家とはちがって、日本の国家は、契約で起こされた人為物ではなくて、成長したものである。日本統治者のその人民に”対する”地位は、独自のものである。その権力は絶対である。その行使する権利は、古代ローマの父権に一番いている。彼が国家を治めるのは、(中略)平和と幸福をもたらす義務としてである。彼と自民との関係は、(中略)優しい父親の性質を帯びる。」
ここで新渡戸はシラーを引用する。
「泣くのでは王になれぬが、泣かないでは父になれぬ。」
そして憲法は「明治天皇がその臣民に与えようとした権力」であり、「天皇自身の自発性によってあたえられるはずである。自民の得る権利は、強制されてではなくて、恵みの賜物として、天皇から付与されるはずである。」と説く。
そして日本憲法は統治者と被治者の契約ではなく布告であり、その起源は片務的である、と。
さらに新渡戸は、憲法を草した伊藤の意図を説明する。
「伊藤はそれを綿密な文書にしようとは思わなかった。主権者をも人民をも鋳鉄のかせに縛るのは懸命でないと考えたからである。むしろ、それが解釈と実際上の適用によって発展してゆくのを見たくおもった。」(197頁)
別の項で書いたが、新渡戸と伊藤は何度か会っているし(伊藤の意に反した朝鮮併合を説得したのは新渡戸であろう)、上記の伊藤の意図は単なる想像ではなく、直接聞いた内容か、若しくは伊藤に近い人物から(例えば後藤新平)直接聞いた内容ではないか、と想像する。
「四,立憲政治のための訓練」の最後に憲法の特異性として、軍政権につながる問題点を新渡戸は明確に指摘している。この本の出版の半年後、松山で日本を滅ぼすのは軍閥か共産主義、と言って命を狙われた新渡戸の事を思い出すとこの短い記述は深い意味があるように思う。
それは陸海軍大臣が閣議の権限の外にある事だ。両大臣は現役の陸海軍将官から任命される。よって「首相の頭越しに行動するという、時代錯誤の奇妙な慣習が起った。(中略)わが国の政治、また時年には外交において、軍事的要素が不当な優位をえる原因としばしばなったのは、この軍人の変則的特権である。」と新渡戸は述べる。