『日本-その問題と発展の諸局面』(27)

『日本-その問題と発展の諸局面』「第四章政府と政治」にある、【十日本の政治における自由な要素】では、日本には「自由思想」はなく、明治維新と共にイギリスとフランスの自由思想が輸入されたが、すぐには根付かなかった、と。

伊藤公が政治思想をドイツ官僚政治に取ったため、自由思想はしぼんでしまった。しかし、政府は世論を味方につける必要があったため伊藤公は自由党を事実上買い取り(!)政友会と名前を変えて当局の機関とした。(伊藤公オソルベシ!)また帝国憲法は御誓文にあった「自由主義的」含みを避けた、とある。

 

新渡戸は問う。

「われわれの政治生活の構想には、”自由主義”の根があるのか?あるいは、もっと無遠慮にいうなら、われわれの人生観には”自由”の感覚があるかどうか問うてみよう。」(231頁)

そして答える。

自由主義”は「わが民族の歴史的遺産でも心理的欲求でもなかった。」新しい思想であると認めた。

 

新渡戸は”自由思想”について議論を深める。

自由の前に人格性の実現がなければならない。日本には”人格性”の歴史的基礎も、”自由“の歴史的体験もないので、”自由主義”は花を咲かす事はなかった、と。しかし、民衆が教育を受け、”人格性”の感覚の成長とともに、民衆は必ず”御誓文”に”自由”が約束されていることを悟であろう、と。

(”御誓文”にはそんな”自由主義”が隠されていたのか?)

 

将来新しい運動として、個人の自由の権利、政治行動における節度、そして人格性の至高の価値の確認を主張するであろう、と結んでいる。

 

新渡戸の自由に関する議論。英国人に向けて書かれたものだ。「自由」とは難しい概念である。新渡戸がいいたい事が今ひとつ理解できない。

新渡戸は東洋哲学の自由を否定している。老荘思想の事であろうか?ここら辺が新渡戸がリベラル教養主義と言われる部分なのだろうか?