「日本の折衷主義 ー新渡戸稲造論ー」鶴見俊輔著、『近代日本思想史講座Ⅲ』筑摩1960

「近代日本思想史講座」に納められている鶴見俊輔の「日本の折衷主義」は、日本近代思想史が、マルクス主義の思想史家によってされる修正主義の批判だけでなく、折衷主義で議論される事が重要と、その折衷主義者であった新渡戸稲造論が展開している。

鶴見にとっての折衷とは、新渡戸が説く修養論と国体論、即ち、個人と国家、修養と忠誠(186−187頁)の折衷である。

そして新渡戸のマルクス論が紹介される。(192-193頁)

新渡戸はマルクスの歴史論はわかるが資本論はわからない、と正直だ。そして、学理としてマルクス論を語るはかまわないが、運動としてマルクス主義に走るのは俗論であり、結果はロシアを見て一目瞭然と語る。ちなみに鶴見俊輔氏はマルクス主義ではないが共産党支持者のようである。そして9条支持者でもあるようだ。

鶴見は、矢内原が戦後新渡戸をかばおうと改竄した、もしくは自分の保身のために改竄した、新渡戸の日韓併合主張の部分を、新渡戸が書いた「偉人群像」から引用している。

そして、田中義一陸軍大将の中国侵略を強烈に批判する新渡戸も書いている。

新渡戸は天皇を否定する危険思想(共産主義?)と天皇を利用しようとする軍閥の両方に異議を唱えているのだ。(1932年の松江事件ー日本を滅ぼすのは共産主義軍閥と言って命を狙われたーにつながる)

さらに新渡戸の国体論にはエドモンド・バークがあった。「武士道」にもバークがあるらしい。しかし鶴見はバークを「偏見、迷信」としているので、バークに対する評価は新渡戸と鶴見では別れているのだろう。

この後、1929年の太平洋問題調査会の京都会議で日本を批判する新渡戸に反発した副島道正伯爵と、4年後の1933年のカナダのバンフ会議で行われた太平洋問題調査会会合で日本の立場を擁護した新渡戸を高く評価した副島伯爵の話が出て来る。

 

この新渡戸の行動の変遷を、北岡新一氏などは「転向」と批判するのだが、果たしてそうなのだろうか?ここら辺は太平洋問題調査会及びその周辺の動きを追っていけば新渡戸の変遷が解るような気がする。

続いて鶴見は当方がこのブログで30回以上に渡って紹介した新渡戸の『日本-その問題と発展の諸局面』を取り上げ、日本の美化は明治末期には欧米人、中国人に通用したが昭和はじめにはもう通用しない、と一刀両断。また新渡戸が同書で主張する国体観も「信仰」という言葉で片付けられているように見える。ここら辺は正直読んでいて不快である。

最後に鶴見は、あまりとりあげられていない、柳田国男と新渡戸の関係を記している。以前書いたが柳田を民俗学に導いたのは新渡戸であった。しかし、国際連盟の委任信託統治委員になった柳田と新渡戸は大きな亀裂があったようで、二人の関係はあまり知られていない。

 

民俗学•台湾•国際連盟 ー 柳田國男新渡戸稲造』佐谷眞木人著、講談社、2015年

 

正直、この鶴見の論文を何を言いたいかわからなかったのだが、ここに出て来る情報は、新渡戸門下が隠したがっている日韓併合推進の話や、満州事変とほぼ同時に出版され多分「天皇は象徴」を引用したGHQ以外には顧みられなかった『日本-その問題と発展の諸局面』を取り上げ、さらに柳田との関係も述べている事は興味深い。

もう一点心に留めておくべき点は、鶴見俊輔の祖父が後藤新平で、父が鶴見祐介で、後藤は新渡戸を見いだした人物、鶴見祐介は新渡戸を敬愛する生徒であったことだ。即ち俊輔にとって新渡戸を語る事は祖父の後藤新平と父の鶴見祐介を語る事にもなるのではないだろうか?

俊輔氏は、母親から祖父、父に恥をかかすなと酷く叱られてばかりいた。結果、姉の鶴見和子氏が守らなければならない程グレたり自殺未遂するような青年期を過ごして来たのである。即ち祖父、父に対するコンプレックスが新渡戸を通して記された、と読めばこの論文の意味が解って来るような気もする。

 

最後に父親祐介氏も含まれているであろう箇所を引用する。(同書215−216頁)

「昭和時代の軍国主義の支配にたいして、かつて新渡戸門下であった官僚・政治家・実業家・教育者・学者たちのとった道は、偽装転向意識に支えられながら、なしくずしに軍国主義にたいしてゆずっていくという道をとった。偽装転向意識に支えられているということがかえってかれらの中に転向の自覚を生まず、この故に敗戦後におなじく転向意識なしになしくずしに民主主義に再転向することが可能となった。これら個人の転向・再転向は、日本の支配階級内部での強力な相互扶助、パースナルな親切のだしあいによって支えられてきた。」

 

ここには蝋山政道、松本重治なども入るのであろうか。。