『日本-その問題と発展の諸局面』(13)

『日本-その問題と発展の諸局面』の第三章は

「新日本の出現」 "Emergebce of New Japan".

 

新日本は外国人(ペリー)が国内に現れた事によって将軍と皇室が合一することになった。そして、この外国人をどのように扱うか、が大きな課題であったと、新渡戸は指摘する。

1868年2月には日本は国際法の規定に従い、天皇は外国代表の拝謁を許すと宣言した。

国家、政府としての形を明確に示したのだ。江戸末期、西洋政府は薩長大名を江戸の中央政府から独立したものとして扱っていたのだ。下手をすれば日本は2つに割れ,西洋諸国の植民地になっていたのだろう。

 

ハワイ、トンガ、タヒチ王国を見てみよ。西洋人のやり方がよくわかる。

ジョージ・ツポウ5世(2) – 日本の皇室が支えたトンガの民主化 - やしの実通信 by Dr Rieko Hayakawa

 

サムライは当時全国に26万家族、102万人いた。大宝の改革同様、封建領主から土地を取り上げ、土地と人間を国有化した。

そして新政府は、皇室の大義に対する忠実を、回復された地位にふさわしい威厳を予算、近衛兵、学者、侍従を配備する事で示した。1868年2月8日明治天皇は14才だったのだ。

それから新渡戸の次の指摘が重要であるように思う。つまり天皇はアラーやキリストとは違うと存在形式であることを言いたかったのではないだろうか?

「東洋でよく行われたように、天皇を人間の身分以上に押し上げる事はせずに」(同書111頁)

ここ、英文では "without raising him, as was so often done in the East, above the condition of mortals". (1931年版英文 p. 104)となっています。

そして天皇を京都から引き離した理由の一つが面白い。

新日本の首都として、京都につきもののいじけた伝統から解放することが賢明だと考えられた、とある。

京都 ー 確かにいじけた、いけずな面はあるように思います。

そして新日本は、若く、また世界一長い歴史をもつ権威の明治天皇の下で次々と新制度を進めて行く。

 

その中で教育制度の改革では、天皇の「学制の被仰出書」*を紹介し、1872年には義務教育令を公布し、1876年には完全実施したことに新渡戸は「賛嘆を禁じえない」と書いている。

*「自今以後,一般ノ人民華士族農工商及婦女子必ス邑ニ不学ノ戸ナク,家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」

この文章、教育のユニバーサルサービスのアイデアなのである。日本にいると当たり前のこのユニバの概念は実は世界的に見れば非常に珍しい概念なのだ。

これがまた天皇令である事が重要なのだろう。しかも、仁徳天皇の「民のかまど」、即ち千年以上前からあるpublic ethos 公共倫理、である。