『日本-その問題と発展の諸局面』(24)

政党結成の困難は、徳川体制下の徒党を禁じる法の下、5人以上で目的が明らかでなく集まると逮捕を免れなかったという思考習慣にあった。

 

他方、全国の若い不満分子を集めた板垣の政党の動きを新渡戸は批判する。

「時の政府に同情を覚えてよかろう。」と。

なぜか?

党員の政治教育は惨めなほどであったし、彼らの公言の原則は「主として革命以前のフランスの文筆家から得たもので、ルソーが最も尊敬された第一の教師だった(以下略)」からである。

そして新渡戸は板垣の動きは自由を名乗る政党ではなく、「自由の群団」と切り捨てる。

 

板垣らの動きに対し、大隈がイギリスの自由主義に基づいた政党を興す。彼らは「新日本」最大の教師福沢諭吉に教育を受けた人々が中心であった。

 

2つの政党に対し、政府は寡黙が美徳であるという長い習慣から、雄弁こそが民主主義の武器である事に気づかず、他人に新聞編集者に代弁させたのである。これに対し2つの政党は「あらゆる蛇のように賢い方法を用いて、無邪気な民衆に入知恵をつけようとした。」と新渡戸は指摘する。

 

ここで面白いのは新渡戸が、憲法草案に一番責任のある伊藤公の対応を紹介している事だ。政党を無視し、自由党を迫害していた伊藤公は「彼は静かに旧”自由党”に歩み入った。しかし、その入党に先んじて、自由党は新しい名をつけられたー政友会」である。

(迫害した後丸め込む。伊藤博文ってすごいなー。)

 

そして政党制度、天皇制、憲法の矛盾が3点指摘される。

1)大臣は議会ではなく、天皇に責任を負っている、よって理論的には大臣は政党が負けても職務に留まれる。

2)天皇は元老の意見を求めるのであるが、生き残っているのは一人である。(即ち長老政治が機能しなくなる。これ即ち天皇の判断が政党体制に直結する、という事ではないでしょうか?)

3)陸海軍大臣はいかなる政党加入も禁じられている人々と規定されており、政党政治の連帯性が欠けている。(別の箇所で新渡戸はこの特殊な陸海軍大臣のポジションが軍閥、軍事政権につながる事を明確に批判している)