もう一つの『海上の道』国分直一著

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柳田國男を否定したのは新渡戸だけではない。以前ナチス優生学イデオロギーにも繋がる柳田の民俗学Volkloreが90年代に南島イデオロギーとしてかなり批判されていた事を書いた。

オーストロネシア語族と台湾の民族学・考古学の事を書こうと色々手元にある文献を再度開いてみた。民族学者の国分直一が柳田の本のタイトルをそのまま借りて来て民族学民俗学ではない)の真っ当な学術書を書いている。

ところが、この本の参考資料を確認したが柳田の資料は一切出てこない。

柳田の事が多少出てくるが、詩的な表現にすぐれているとしか書かれていない。

本のタイトルを全く同じにして一切触れない。これはかなりの柳田批判と受け取れる。

この本が出た1986年より10年前の柳田誕生百年記念講演に講師で呼ばれた国分はやはり柳田の「海上の道」が学術的根拠なく書かれているか、がやんわりと書かれている。

 

国分直一、柳田国男と「海上の道」法政大学沖縄文化研究所 976-07-28 

法政大学学術機関リポジトリ

 

柳田國男、というだけで中身の中立的な評価が行われないまま信じてしまうのは危険だ。思い込みで世の中が語られるのが一番怖い。人間は自分が理解したようにしか理解しない生き物だから、である。稲村さんの発言を思い出すと「柳田病」にかかった人は柳田批判をする新渡戸や国分の学術研究は読まない、読めない、読みたくないのだ。

 

ところでこの国分の本は「倭と倭的世界の模索」と副題があるように東シナ海、そして南シナ海にも倭の生活圏があった事を議論している。であれば南シナ海判決に歴史的権利を持ち出す中国と対抗できる史実のはずだが、稲を持って南からやって来たという柳田の創作話を信じているうちはもう諦めて明け渡したらどうであろう?

緒方貞子著『満州事変』と新渡戸

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緒方貞子さんの「満州事変」(岩波現代文庫2019)を読みおえました。
関連する歴史も地理の知識もなく半分も理解できていませんが、読みだすと止まらないほど面白かったのです。緒方さんの英語で書かれた博士論文が基礎になっています。
 
満州事変に関しては新渡戸の松山事件を思い出します。1932年2月上海事件直後の講演で松山を訪ねた新渡戸がオフレコで記者に話した事が新聞記事となり、これが原因で新渡戸は日米の友人知人を失う事に。緒方論文を読むと新渡戸の発言の意味はこういう事だったのかと理解できたのです。
 
下記はウィキから取った新渡戸の問題発言。松山の海南新聞に掲載されたものです。ウェブに原典が確認できる資料がないか探しましたがありません。下記のブログ「郎女迷々日録 幕末東西」に当時の海南新聞、愛媛新報、伊予新報が其々に新渡戸の発言を整理されており参考になりました。
 
「近頃、毎朝起きて新聞をみると、思わず暗い気持ちになってしまう。わが国を滅ぼすものは共産党軍閥である。そのどちらが恐いかと問われたら、今では軍閥と答えねばなるまい。軍閥が極度に軍国主義を発揮すると、それにつれて共産党はその反動でますます勢いを増すだろう。共産主義思想はこのままでは漸次ひろがるであろう」
国際連盟が認識不足だというのか? だが、いったい誰が国際連盟を認識不足にしたのか? 国際連盟の認識不足ということは、連盟本部が遠く離れているのだから、それはあるだろう。 しかし、日本としては当然、国際連盟に充分認識せしめる手段を講ずべきではなかったか? 上海事件に関する当局の声明はすべて三百代言的というほかはない。私は、満州事変については、われらの態度は当然のことと思う。しかし、上海事件に対しては正当防衛とは申しかねる。支那がまず発砲したというのか? だから、三百代言としか思えぬというのだ」
 
満州事変は英米とも日本の立場に理解を示していたのです。しかし関東軍は拡大するばかり。しかも連盟で理解を得ようとするどころか、米国のスチムソンを怒らせてしまうのです。カール・シュミットを読んで知ったのですが、連盟メンバーではなかった米国はあらゆる立場で連盟を主導してきたのです。
 
満州事変を巡る連盟との交渉の先頭に立ったのが芳澤謙吉で緒方氏の祖父。当時担当した日本外交官が事務的にしか対応できなかった、と新渡戸がやんわり批判していたのはこの人かもしれません。私だったら現場を知らない本国政府の指示を鵜呑みにするのではなく、複数のチャンネルで外交活動を展開するのに、と読んでいて思いました。それが上記の新渡戸の言葉「日本としては当然、国際連盟に充分認識せしめる手段を講ずべきではなかったか?」ではないでしょうか?

維新負け組の新渡戸

special.sankei.com

 稲村公望さんの新渡戸に対する誤解を解きたく、それはある意味世間の新渡戸に対する誤解にも通じるので思い切ってこのFBとブログを立ち上げました。

 さて「武士道」を書いた新渡戸は武士の階級。すなわち庶民よりも位や社会的環境は恵まれていた、のでしょうか。これは二重にも三重にも間違った理解です。

 産経新聞で新渡戸と後藤を扱った「維新負け組のリベンジ」(2020.4.1)という記事を見つけました。(有料です。)

 新渡戸・後藤は武士ではありますが維新の「負け組」だったのです。新渡戸の書いたものを読むとどれほど厳しい生活であったか、そしてこの記事にあるように身近な人の処刑を経験してきているのです。

 新渡戸が北海道の農学校に行ったのも授業料がタダだったからです。キリスト教信仰心があって、というわけではなかった、とこれは新渡戸自身が書いています。

 後藤も新渡戸の海外留学は私費でした。官費で国の留学生として派遣された他の日本人学生が観光をしている間も必死で勉強したそうです。

 記事には「リベンジ」とありますが、後藤・新渡戸を評価した児玉源太郎長州藩。後藤は肥後細川藩の安場保和に認められ安場の娘を妻に。

 維新の戦いでも日本は国を2つに割らなかったのです。これも新渡戸が書いています。

植民地主義者、帝国主義者の新渡戸と柳田

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村井紀著『南島イデオロギーの発生』は柳田批判で話題になった本ではないかと思う。薄っすらとした読書の記憶しかないが共感する部分と、小熊英二の「単一民族の神話」にも通じる左翼的な「匂い」を感じて、柳田に距離を置くきっかけになった。

同志社大学の図書館で借りてざっと、再読した。

これほどの思い込みで書く文章はエッセイなのか学術論文なのか?稲村さんの新渡戸への思い込みが可愛く見えるほどだ。著者村井氏は国文学・思想史の教授である。いや新渡戸が植民主義であることを知らない、もしくは無視する人が多いなか、はっきりと新渡戸がコロニアリストと認識しているところは尊敬する。

しかしその新渡戸の植民政策学の理解が間違っていることと、柳田が新渡戸と同じ植民主義者である、という認識は間違っている。柳田は植民政策を理解できず国際連盟を辞任したのだ。もしも、柳田が新渡戸を理解していれば戦争が始まってからオランダ領ニューギニアを第二の日本にしよう、などと言わないであろう。もし新渡戸が生きてそれを聞いたら卒倒したであろう。それほど新渡戸の植民政策を柳田は理解していなかったのだ。

村井は柳田を植民地主義者、帝国主義者として糾弾し『海上の道』で日本人の起源を南に求めたことで、日韓併合、山の人=部落差別から逃げたことを糾弾している。さらに柳田・折口の民俗学の「家と郷土」がナチズムの「血と土」であり、新国学として全体主義との「類縁性」がある、と主張する。

民族主義ネトウヨと称する人たち、すなわち稲村氏であるが、彼らを支えているのも柳田の民俗学であろう。赤松啓介が「柳田民俗学には、日本人は太古の昔から優秀な民族で、これからも繁栄していくという空疎な前提がある。」と書いていることを村井は引用している。

村井の思い込みたっぷりの文章に違和感を感じながらもハンナ・アーレントの『暗い時代の人々』が引用されている箇所は勉強になった。耐え難い現実から逃げるために想像上の世界に引きこもってしまう「内的亡命者」が満蒙開拓義勇軍を推進した人々であり昭和ファシズムの形成につながった、というのだ。柳田の民俗学がそれを支えた、というのだ。

ところで村井氏も佐谷氏も国文学者である。国文学者が植民政策論を語ることに無理がある。新渡戸の植民政策を柳田は理解せず、文学の分野に迷わせてしまったのではないか。柳田自身が『遠野物語』は文学である、と言っているのだ。現実ではないということだ。新渡戸が一度は柳田に託した「委任統治制度」は矢内原が立派な論文を書いている。新渡戸を知らずに新渡戸を語る人が多いのは、柳田のせいかもしれない。

新渡戸に見捨てられ、批判されるファシスト柳田の民俗学

続いて佐谷 眞木人著『民俗学・台湾・国際連盟』から。
 
柳田を国際連盟に推挙したのが新渡戸である。
柳田は新渡戸の委任統治に対する熱意を理解していた。
柳田の民俗学は新渡戸が示した地方文化研究の根本的学問の方向性を引き継いでいる。
 
その新渡戸に柳田は見放され、見捨てられ、批判されたのである。柳田は国際連盟で言葉の壁にぶつかり突然辞任したのだ。新渡戸がここまで怒る背景には、郷土研究だけでなく日韓併合で二人は協力し、柳田に対して大きな期待を持っていたからであろう。その後、新渡戸が忙しい事もありこの二人の関係は修復されることがなかった。
 
しかし柳田研究者のロナルド・A・モースは「柳田は新渡戸の背中を見て歩いていた」と述べるように、連盟を去った後も柳田は新渡戸を意識していたはずである。
 
そんな柳田を言葉の能力だけでなく、郷土研究の姿勢からも新渡戸は痛烈に批判している。
柳田は国際連盟で欧州滞在中に、ドイツの民俗学の影響を受ける。それは「一国民俗学」という形になり、ナショナリズム全体主義に容易に結びつくものであった。柳田が倣ったドイツの民俗学ナチスに結びついて行ったのである。
そんな柳田の民俗学を新渡戸は次のように批判する。
「村に関する物語に興味を感じて、せっかくの研究を骨董化するもの」「趣味的から郷土を慕うものは、童謡や踊りを挙げて田園の生活を極楽化するの嫌いがある」
 
柳田批判は1990年代に相次ぎ、その再批判もあったという。批判は柳田の民俗が植民地支配やナショナリズムに結びついていたという批判だ。
その中の批判の一つ『南東イデオロギーの発生 柳田國男植民地主義」を次は取り上げたい。

柳田を国際連盟委任統治委員に招いた新渡戸

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新渡戸が国際連盟の事務次長であった事実を日本人が知らない。

米国、ドイツ留学に加え、この留学で米国人のメアリー・エルキントンに見初められ結婚。米国留学中の同窓はあのウィルソン大統領である。

語学が堪能な上に台湾植民の実績もある。台湾からの帰国後は第一高等学校長、東京帝国大学農科大学教授の職につく。青年の育成と共に植民政策、と言っても現在の国際政治、経済開発学に近い研究も深め、日韓併合伊藤博文二時間にも渡って講義するなど政治的実績も積んでいる。

その新渡戸を「一大茶番劇を見に行こう」とパリ講和会議に誘ったのが後藤新平である。そのパリで新渡戸は日本を代表し国際連盟事務次長を後藤から推薦されてしまう。台湾開拓の道を示したのも後藤であるが、国際機関外交官、世界秩序構築の役割を示したのもまた後藤であった。

新渡戸は一人欧州に残り、連盟設立準備の中心的役割を果たす。ユネスコなどの関連組織も新渡戸のアイデアだ。(写真はアインシュタインも招いた知的委員会の様子)

旧ドイツ領の管理を巡って創設された委任統治という新たな枠組み。この委員会に貴族院書記官長を辞任したばかりの柳田を招いたのは新渡戸である。

皮肉にもこれが悲劇につながる。柳田は書く読むの英語はできたかもしれないが、会議で必要な会話能力が追いつかなかったのである。これは柳田自らが語っていることだ。それはそうだ。海外留学、米国人の妻、そして台湾での統治経験のある新渡戸と比べ、柳田にとっては初めて海外生活だ。語学だけではない。西洋人の人種差別や非西洋諸国、特に南洋諸島に対する不理解にも絶望する。弟の松岡静雄の南洋研究の影響も多分にあったであろう。柳田は国際連盟に失望し、突然帰国してしまう。そして新渡戸との関係も絶たれる。

この国際連盟での経験が、そしてドイツの民俗学の出会いが、それ以降の柳田の「民俗学」を決定し、形成していくことになるのだ。

以上、佐谷眞木人著『民俗学•台湾•国際連盟 ー 柳田國男と新渡戸稲造』を中心に自分の知見も加えまとめました。次回はドイツ民俗学ナチスとの関係を中心にまとめてみます。

稲村公望氏の新渡戸と柳田に関する誤解

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2015年に出版された『民俗学•台湾•国際連盟 ー 柳田國男新渡戸稲造』佐谷眞木人著を読んでからと思っていたが、本棚にまだ残していた。

私は90年代から10年ばかり八重山諸島を中心に「やしの実大学」という事業を地元の有識者達とたち上げ運営してきた。その中で、沖縄研究を中心に柳田やその周辺(即宮本常一、網野、谷川など)の「民俗学」はざっとだが読んでいた。しかし国際政治の現場と学問的議論を勉強する中で柳田の民俗学の限界を認識した。平たく言うと「可哀想な離島、寒村、僻地という視点では現実を議論し改善することはできない」と言う事だ。2017年一つ目の博士論文を書き終えた後、かなりの本を処分する中に柳田関連の本もあったのだ。

国文学者、佐谷眞木氏の本は2016年に読んでブログにも書いているが、昨日再読した。
https://yashinominews.hatenablog.com/entry/2016/04/08/051452

新渡戸は柳田と同じく農政学を修めている。台湾植民もその流れである。札幌農学校、米国、ドイツ留学で学んだだけではない。新渡戸の祖父、父は農地開拓者として明治天皇からも嘉賞を受けており稲造は理論だけでなく、現場からも学んでいるのだ。新渡戸が「地方(ジカタと読む)の研究」で主張した研究対象には台湾で行われた「旧慣調査」と同じく童謡や民話の収集も含まれていた。

その議論は柳田に民俗学の道を示したのである。33歳の柳田は1907年の新渡戸の講演を聞き強い感銘を受ける。柳田も神隠しなど伝承に関心があった事と専門の農政学が新渡戸の「地方の研究」によって結びついたのである。

柳田は明治40年頃自ら「郷土研究会」を開催していたが明治43年(1910年)から新渡戸邸で「郷土会」に引き継がれる。新渡戸が国際連盟事務次長として日本を離れた1919年までこの研究会は継続する。

1919年 ー 柳田が貴族院書記官長を辞任した年である。

新渡戸が国際連盟に柳田を招聘する話。そして柳田がドイツの民俗研究と接近し、ナチスとの関連など後2回位に分けて書きます。