『日本・1945年の視点』三輪公忠著ー再読

私が三輪公忠氏の著書に出会ったのは新渡戸にのめり込んだ頃で、上記のブログにあるように北岡伸一氏のトンデモ本を読んで頭から煙を出していた時だ。

『日本・1945年の視点』には新渡戸と矢内原のことも結構書かれていて、購入を決意した。いくつか感想文をブログに書いているが、今回の本の執筆で三国同盟と軍部の南進のことを少し触れたかったので本棚から取り出した。

今、再読したいと思っている本だけが本棚に残っているが、老婆となった今、再読する前にボケたり、死んじゃったりするかもしれない。本棚に戻す前に『日本・1945年の視点』を再読することとした。

本の構成は以下の通り。

1章 1945年の視点

2章 戦争と国民国家の形成

3章 大正の青年と明治神宮の杜

4章 アジア新秩序の理念と現実

5章 地域的普遍主義から地球的普遍主義へ

6章 国家の連続性と占領協力

 

1986年に出版された本が2014新装版として再販されている。それだけ人気があるのであろう。

色々なところに書かれたものをまとめたのだと思う。であれば70−80年という冷戦真っ盛りでまだ左翼的な言論が主流のころ。読み返すと特に日韓併合など左っぽい表現が多いが、それは当たり前なのかもしれない。

1章にある三国同盟の話を今回の本で紹介した。

2章に新渡戸の植民政策講義の事が書かれているが、日韓併合を2時間以上にわたり新渡戸が伊藤公に説得した話はご存知ないようだが、日韓併合の時期にまさに新渡戸が東京帝国大学で植民政策論講義をしていた事が指摘されており、日韓併合に触れていないはずない、と書かれている。それにもかかわらず、戦争が始まって弟子の矢内原が必死で出版した新渡戸の植民政策講座の本には韓国が一切出てこないのである。

三輪氏は別のところで、矢内原が戦後に新渡戸の発言を改竄していることを指摘している。

一つ気になっているのが、矢内原が死ぬ間際に「俺は偽善者だった」と奥さんに悔いていることだ。どこで読んだか忘れてしまったのだが。矢内原も日韓併合を支持していたはずだ。それが軍国主義の中でねじ曲がってしまった。その軍国主義が生まれた原因も矢内原は議論しており、資本主義の結果、だという。すなわち競争にまけたプロレタリアートが軍人となり財閥と手を組んでいく。そういう議論だったはずだがこれも再読したい。

後藤・新渡戸を師と仰いだ台湾の李登輝元総統

f:id:yashinominews:20200804115427j:plain

私の新渡戸・後藤との出会いは、本格的には矢内原の『南洋群島の研究』をきっかけにした植民論であるが、それ以前も李登輝氏の本で知ったことにある。

その李登輝氏を知ったのはベストセラーとなった『戦争論』で「え?日本悪くなかったの?」と気づかせてくれた”よしりん”こと小林よしのり氏の本であった。

2017年一つ目の博論を書き終えた後、本棚3つ分位の本を処分し、そこに入れたか気になっていたが、一冊だけあった。

2001年発行の写真の本である。そして一気に読み終えた。小林氏が若い人向けに読みやすく書いているのだ。そこに書かれていることは全てそのまま今にも当てはまることだ。

そして2006年李登輝氏が東北を訪ねた意味も今ならわかる。李登輝氏が師と仰いだ後藤新平新渡戸稲造に会いに行ったのである。台湾と李登輝氏の始まりが日本の東北、北上川沿いにある。

李登輝氏が台湾で進めた民主化の背後に後藤と新渡戸を感じることもできる。

昨年後藤の誕生の地、水沢を訪ねた時、後藤記念館により、後藤新平顕正会とい会に入った。後藤の大アジア主義の短い論文に関して、記念館の学芸員の方たちとこの数週間やりとりしてたところであった。

水沢の後藤記念館では李登輝氏を追悼する企画展が準備されているという。

www.tankonews.jp

 

もう一つの『海上の道』国分直一著

f:id:yashinominews:20200528072130j:plain

柳田國男を否定したのは新渡戸だけではない。以前ナチス優生学イデオロギーにも繋がる柳田の民俗学Volkloreが90年代に南島イデオロギーとしてかなり批判されていた事を書いた。

オーストロネシア語族と台湾の民族学・考古学の事を書こうと色々手元にある文献を再度開いてみた。民族学者の国分直一が柳田の本のタイトルをそのまま借りて来て民族学民俗学ではない)の真っ当な学術書を書いている。

ところが、この本の参考資料を確認したが柳田の資料は一切出てこない。

柳田の事が多少出てくるが、詩的な表現にすぐれているとしか書かれていない。

本のタイトルを全く同じにして一切触れない。これはかなりの柳田批判と受け取れる。

この本が出た1986年より10年前の柳田誕生百年記念講演に講師で呼ばれた国分はやはり柳田の「海上の道」が学術的根拠なく書かれているか、がやんわりと書かれている。

 

国分直一、柳田国男と「海上の道」法政大学沖縄文化研究所 976-07-28 

法政大学学術機関リポジトリ

 

柳田國男、というだけで中身の中立的な評価が行われないまま信じてしまうのは危険だ。思い込みで世の中が語られるのが一番怖い。人間は自分が理解したようにしか理解しない生き物だから、である。稲村さんの発言を思い出すと「柳田病」にかかった人は柳田批判をする新渡戸や国分の学術研究は読まない、読めない、読みたくないのだ。

 

ところでこの国分の本は「倭と倭的世界の模索」と副題があるように東シナ海、そして南シナ海にも倭の生活圏があった事を議論している。であれば南シナ海判決に歴史的権利を持ち出す中国と対抗できる史実のはずだが、稲を持って南からやって来たという柳田の創作話を信じているうちはもう諦めて明け渡したらどうであろう?

緒方貞子著『満州事変』と新渡戸

 f:id:yashinominews:20200418112940j:plain f:id:yashinominews:20200418112924j:plain f:id:yashinominews:20200418112926j:plain

緒方貞子さんの「満州事変」(岩波現代文庫2019)を読みおえました。
関連する歴史も地理の知識もなく半分も理解できていませんが、読みだすと止まらないほど面白かったのです。緒方さんの英語で書かれた博士論文が基礎になっています。
 
満州事変に関しては新渡戸の松山事件を思い出します。1932年2月上海事件直後の講演で松山を訪ねた新渡戸がオフレコで記者に話した事が新聞記事となり、これが原因で新渡戸は日米の友人知人を失う事に。緒方論文を読むと新渡戸の発言の意味はこういう事だったのかと理解できたのです。
 
下記はウィキから取った新渡戸の問題発言。松山の海南新聞に掲載されたものです。ウェブに原典が確認できる資料がないか探しましたがありません。下記のブログ「郎女迷々日録 幕末東西」に当時の海南新聞、愛媛新報、伊予新報が其々に新渡戸の発言を整理されており参考になりました。
 
「近頃、毎朝起きて新聞をみると、思わず暗い気持ちになってしまう。わが国を滅ぼすものは共産党軍閥である。そのどちらが恐いかと問われたら、今では軍閥と答えねばなるまい。軍閥が極度に軍国主義を発揮すると、それにつれて共産党はその反動でますます勢いを増すだろう。共産主義思想はこのままでは漸次ひろがるであろう」
国際連盟が認識不足だというのか? だが、いったい誰が国際連盟を認識不足にしたのか? 国際連盟の認識不足ということは、連盟本部が遠く離れているのだから、それはあるだろう。 しかし、日本としては当然、国際連盟に充分認識せしめる手段を講ずべきではなかったか? 上海事件に関する当局の声明はすべて三百代言的というほかはない。私は、満州事変については、われらの態度は当然のことと思う。しかし、上海事件に対しては正当防衛とは申しかねる。支那がまず発砲したというのか? だから、三百代言としか思えぬというのだ」
 
満州事変は英米とも日本の立場に理解を示していたのです。しかし関東軍は拡大するばかり。しかも連盟で理解を得ようとするどころか、米国のスチムソンを怒らせてしまうのです。カール・シュミットを読んで知ったのですが、連盟メンバーではなかった米国はあらゆる立場で連盟を主導してきたのです。
 
満州事変を巡る連盟との交渉の先頭に立ったのが芳澤謙吉で緒方氏の祖父。当時担当した日本外交官が事務的にしか対応できなかった、と新渡戸がやんわり批判していたのはこの人かもしれません。私だったら現場を知らない本国政府の指示を鵜呑みにするのではなく、複数のチャンネルで外交活動を展開するのに、と読んでいて思いました。それが上記の新渡戸の言葉「日本としては当然、国際連盟に充分認識せしめる手段を講ずべきではなかったか?」ではないでしょうか?

維新負け組の新渡戸

special.sankei.com

 稲村公望さんの新渡戸に対する誤解を解きたく、それはある意味世間の新渡戸に対する誤解にも通じるので思い切ってこのFBとブログを立ち上げました。

 さて「武士道」を書いた新渡戸は武士の階級。すなわち庶民よりも位や社会的環境は恵まれていた、のでしょうか。これは二重にも三重にも間違った理解です。

 産経新聞で新渡戸と後藤を扱った「維新負け組のリベンジ」(2020.4.1)という記事を見つけました。(有料です。)

 新渡戸・後藤は武士ではありますが維新の「負け組」だったのです。新渡戸の書いたものを読むとどれほど厳しい生活であったか、そしてこの記事にあるように身近な人の処刑を経験してきているのです。

 新渡戸が北海道の農学校に行ったのも授業料がタダだったからです。キリスト教信仰心があって、というわけではなかった、とこれは新渡戸自身が書いています。

 後藤も新渡戸の海外留学は私費でした。官費で国の留学生として派遣された他の日本人学生が観光をしている間も必死で勉強したそうです。

 記事には「リベンジ」とありますが、後藤・新渡戸を評価した児玉源太郎長州藩。後藤は肥後細川藩の安場保和に認められ安場の娘を妻に。

 維新の戦いでも日本は国を2つに割らなかったのです。これも新渡戸が書いています。

植民地主義者、帝国主義者の新渡戸と柳田

f:id:yashinominews:20200306155208j:plain

村井紀著『南島イデオロギーの発生』は柳田批判で話題になった本ではないかと思う。薄っすらとした読書の記憶しかないが共感する部分と、小熊英二の「単一民族の神話」にも通じる左翼的な「匂い」を感じて、柳田に距離を置くきっかけになった。

同志社大学の図書館で借りてざっと、再読した。

これほどの思い込みで書く文章はエッセイなのか学術論文なのか?稲村さんの新渡戸への思い込みが可愛く見えるほどだ。著者村井氏は国文学・思想史の教授である。いや新渡戸が植民主義であることを知らない、もしくは無視する人が多いなか、はっきりと新渡戸がコロニアリストと認識しているところは尊敬する。

しかしその新渡戸の植民政策学の理解が間違っていることと、柳田が新渡戸と同じ植民主義者である、という認識は間違っている。柳田は植民政策を理解できず国際連盟を辞任したのだ。もしも、柳田が新渡戸を理解していれば戦争が始まってからオランダ領ニューギニアを第二の日本にしよう、などと言わないであろう。もし新渡戸が生きてそれを聞いたら卒倒したであろう。それほど新渡戸の植民政策を柳田は理解していなかったのだ。

村井は柳田を植民地主義者、帝国主義者として糾弾し『海上の道』で日本人の起源を南に求めたことで、日韓併合、山の人=部落差別から逃げたことを糾弾している。さらに柳田・折口の民俗学の「家と郷土」がナチズムの「血と土」であり、新国学として全体主義との「類縁性」がある、と主張する。

民族主義ネトウヨと称する人たち、すなわち稲村氏であるが、彼らを支えているのも柳田の民俗学であろう。赤松啓介が「柳田民俗学には、日本人は太古の昔から優秀な民族で、これからも繁栄していくという空疎な前提がある。」と書いていることを村井は引用している。

村井の思い込みたっぷりの文章に違和感を感じながらもハンナ・アーレントの『暗い時代の人々』が引用されている箇所は勉強になった。耐え難い現実から逃げるために想像上の世界に引きこもってしまう「内的亡命者」が満蒙開拓義勇軍を推進した人々であり昭和ファシズムの形成につながった、というのだ。柳田の民俗学がそれを支えた、というのだ。

ところで村井氏も佐谷氏も国文学者である。国文学者が植民政策論を語ることに無理がある。新渡戸の植民政策を柳田は理解せず、文学の分野に迷わせてしまったのではないか。柳田自身が『遠野物語』は文学である、と言っているのだ。現実ではないということだ。新渡戸が一度は柳田に託した「委任統治制度」は矢内原が立派な論文を書いている。新渡戸を知らずに新渡戸を語る人が多いのは、柳田のせいかもしれない。

新渡戸に見捨てられ、批判されるファシスト柳田の民俗学

続いて佐谷 眞木人著『民俗学・台湾・国際連盟』から。
 
柳田を国際連盟に推挙したのが新渡戸である。
柳田は新渡戸の委任統治に対する熱意を理解していた。
柳田の民俗学は新渡戸が示した地方文化研究の根本的学問の方向性を引き継いでいる。
 
その新渡戸に柳田は見放され、見捨てられ、批判されたのである。柳田は国際連盟で言葉の壁にぶつかり突然辞任したのだ。新渡戸がここまで怒る背景には、郷土研究だけでなく日韓併合で二人は協力し、柳田に対して大きな期待を持っていたからであろう。その後、新渡戸が忙しい事もありこの二人の関係は修復されることがなかった。
 
しかし柳田研究者のロナルド・A・モースは「柳田は新渡戸の背中を見て歩いていた」と述べるように、連盟を去った後も柳田は新渡戸を意識していたはずである。
 
そんな柳田を言葉の能力だけでなく、郷土研究の姿勢からも新渡戸は痛烈に批判している。
柳田は国際連盟で欧州滞在中に、ドイツの民俗学の影響を受ける。それは「一国民俗学」という形になり、ナショナリズム全体主義に容易に結びつくものであった。柳田が倣ったドイツの民俗学ナチスに結びついて行ったのである。
そんな柳田の民俗学を新渡戸は次のように批判する。
「村に関する物語に興味を感じて、せっかくの研究を骨董化するもの」「趣味的から郷土を慕うものは、童謡や踊りを挙げて田園の生活を極楽化するの嫌いがある」
 
柳田批判は1990年代に相次ぎ、その再批判もあったという。批判は柳田の民俗が植民地支配やナショナリズムに結びついていたという批判だ。
その中の批判の一つ『南東イデオロギーの発生 柳田國男植民地主義」を次は取り上げたい。