後藤新平の大亜細亜主義(3)

後藤新平の大亜細亜主義は、現在のインド太平洋構想、環太平洋構想、アジア太平洋経済協力大東亜共同宣言大東亜共栄圏 と理解する出発点のような気がしている。

西洋の世界観に対抗するアジア中心の概念なのだ。

前回からの続き。文章は水沢の後藤記念館学芸員の皆さんが整理し漢字の説明をつけてくれました。

前半はアジア主義は何もしないで夫々の利害だけ気にしていては全体が崩壊すると警告し、米国の大米国主義と建国以来のモンロー主義、すなわち他国からの干渉を許さず、連邦制だろうが、君主制だろうが、政体に関係なく「大アメリカ位主義」を貫く限り一国の独立を維持できる、と。

そうであれば、後藤の大亜細亜主義は、米国を意識した概念だったのであろうか?

 

アジア諸邦倘し固に偏見を執り觝排相下らず、断々焉として互いに目睫の小利を争い、而して坐ら大アジア主義に眛まんか全亜土崩瓦解、その惨寧ぞ言うに勝ゆべけん、況や邇か頃舟車交通万里比隣の如し、道途の遼山河の険均しく已に恃む所を失うをや、列国一朝口を人道主義に藉り、その精鋭の兵を動かす、豈復た拒ぐべけんや、危ないかな、

恫いかな昔は美国大総統孟路大美洲主義を倡え、美洲の機枢は美洲人当に之を支持すべしと謂い、決して他洲人の干与するを容さず、世之を孟路主義と謂う美人政党政派の異同を論ずるなく、奉じて神権と為す、蓋し大美洲主義は孟路の倡道に係ると雖も、實に美国創建以来の国是たり、華聖頓夙に其義を宣え、累代継承して孟路に至る、孟路標識して一主義と為す、故に美国世界に大たる所以の者は政体の共和たるに因るにあらず、而して主義の大美洲たるに因るなり、故に後日美人の其政体を変ずる、或いは君主立憲為り、或いは君主専制為る、固より其必無を保すべきにあらずと雖も、然れども美国苟も一国の独立を維持するの間は永く大美洲主義を滅却せず、美国苟も大美洲主義を把持するの間は、必ず以て一国の独立を維持すべし、

觝排…よくない事として排斥する。押し退ける。

断々…決めた事を変えない。決して。

焉…形容詞につける助詞。状態をあらわす。

目睫…目の前。 

小利…わずかな利益。

坐…いながらにして。何もしないでいて。

昧…くらい。見えない。物事を知らない。

土崩瓦解…土が崩れるように崩れ落ち、瓦が砕けるようにバラバラになる。

恫い…つらい。

モンロー…ジェームズ・モンローアメリカ合衆国第五代大統領。

モンロー主義…①アメリカとヨーロッパは互いに干渉し合わないという主義。②(外交上の)不干渉主義。

国是…国の方針。

ワシントン…ジョージ・ワシントンアメリカ合衆国初代大統領。

夙に…以前から。昔から。

立憲…憲法を制定する。

専制…自分だけの考えで勝手に決定、処理する。

必無…必ずないこと。必ずそうでないこと。

苟も…もしも。仮に。本当に。

把持…①手にとって持つ。②独占する。

 

 

『日本・1945年の視点』三輪公忠著ー再読 第6章国家の連続性と占領協力

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第6章「国家の連続性と占領協力」に矢内原が戦後、新渡戸を守ろうとして、改竄したことが書かれている。以前読んだ時はそのことを確かめるべく矢内原や新渡戸にのめり込んで行ったのだった。

戦後の新渡戸に対する「誤解」「虚像」は弟子の矢内原が作ったのかもしれない。それは本来新渡戸が語っていたキリスト教でも、国際主義でも、武士道でもない、全く違った新渡戸である。最近、李登輝氏の訃報を中心に「武士道」が語られる度に大きな違和感しか感じないのだ。端的に言えば新渡戸の武士道は葉隠とかではない。よって李登輝氏が理解している武士道も葉隠とは関係ない、はずだ。

第6章「国家の連続性と占領協力」の冒頭は初めて読んだ気がする。終戦間近。戦火を避けて軽井沢に滞在していた近衛文麿や政界財界の名士と家族たちは、農民が畦道まで耕して食料を作る努力をしていたすぐ隣で、ゴルフ場の青々とした芝生を維持していた。(ゴルフの写真を探していたらNHKのドキュメンタリーがあることを知った)これを見た清沢洌は近衛たちの非国民ぶりを攻め、共産主義革命が来ると日記に書き残している。

近衛文麿筒井清忠先生の本でどんな人物かを知ったが知れば知るほど幻滅する。なぜ日本はこんな人物を指導者に選んだのか?彼を育てたのが玄洋社であり新渡戸であるのだが。。

1937年、軍の動きを批判した矢内原は東大を追われるのだが、終戦3週間後には東大に復職している。その代わり平泉澄は追放。矢内原は本居宣長の排外的日本主義を徹底的に糾弾する。その時矢内原は新渡戸の『武士道』も葬ったかもしれない。新渡戸の武士道は英語で書かれ、日本の道徳心を外国人に伝えることを目的としている。これを和訳したのが矢内原である。新渡戸は盛岡藩の武士の子、矢内原は愛媛県今治の医者の家系。

『日本・1945年の視点』三輪公忠著ー再読 第5章地域的普遍主義から地球的普遍主義へ

本棚に戻さずによかった。8月15日に『日本・1945年の視点』にある、解放か?侵略か?を議論した「第5章地域的普遍主義から地球的普遍主義へ」を読めたことは幸運だった。

この章は以下の4節から構成される。

1 地政学の援用

2 戦後秩序への提言 ー 「大東亜共同宣言

3 「大東亜戦争」の両義性

4 脱国家的思想の戦前と戦後

 

この章は以前も読んでいたようで下線が多く引かれてている。今は、波多野澄雄氏の大東共同宣言の研究を読んでいるので以前よりわかるような気がする。

やはり「大西洋憲章」に対抗するものとして書かれた重光の「大東亜共同宣言」は重要なのである。「大西洋憲章」の植民地制度の従属性を否定する「大東亜共同宣言」は、戦後国連での資源政策NEIOや、西洋文明優越説を否定する開発概念が含まれている。

しかし、日本軍が現地でおこなった「侵略」「残虐性」は否定できないのだ。三輪はこれを、スペイン、米国の影響を強く受けたフィリピン人から見下された、日本の農家出身の純朴な青年軍人が反発した話と、ミャンマー軍を日本軍が解放させた話を対比して理解しようと試みる。

「解放」のはずが「侵略」になった責任は3節の「大東亜戦争」の両義性、に詳しいが、三輪は政策決定者にあった、と断言する。私はそれが誰かを今ははっきりと言える。新渡戸、矢内原が緻密に構築して来た植民論を否定した近衛文麿のブレインだった蠟山政道だ。蠟山はドイツ地政学の影響を受け「生命線」という侵略思考の言葉を使い始めたのである。

三輪議論は最後に大東亜共栄圏思想が世界連邦運動に発展することまで言及。これが大東亜国際法を作成した安井郁がチェチェ思想の指導者となって行くことと重なるように思えるのだ。

 

玉音放送の一節一節を吟味したことはない。あの「耐え難きを耐え」があまりにも有名になってしまったからだ。しかしここに日本が犯した侵略性への批判が明確にされているのである。

以下はウィキより。

現代語読み

先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。

読み下し

先に米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず

原文

曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

 

『日本・1945年の視点』三輪公忠著ー再読 4章アジア新秩序の理念と現実

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矢野仁一と内藤湖南 

 

三輪公忠氏のこの本と同時に後藤新平の大亜細亜主義の論文を読んでいる。あれこれ読みたい資料が出てきて収拾がつかなくなり、今4、5点を同時に読んでいるのだが、いっしょでよかった。同じ事が書かれているのだ。

後藤新平亜細亜主義が収まった「日本植民政策一班」は大正10年に発行されている。その同じ年(1921年12月25、26日、大阪朝日新聞支那無国境論)に京都帝国大学矢野仁一教授による中国非国論・無国境論が発表されている。矢野教授は日本の有数のシナ研究者。ここで無国境論、非国論の詳細は省くが、これが満州国建設の理論的根拠になったという。

同じ京大教授の内藤湖南も1914年の『支那論』1938年の『新支那論』で中国がナショナリズムが欠落している事を指摘。

この両名の支那論を読めば、現在の一帯一路、China Dreamのイデオロギー、思想的背景が理解できるかもしれない。

この矢野、内藤の支那論に後藤も影響を受けていたのであろうし、日本の中国認識があったのかもしれない。そこに黄禍論を導く白禍である。19世紀の欧米の植民地支配に苦しめられたアジア諸国が共に手を取り合って白禍に対抗する。日本はその盟主的役割をもっている。。

しかし1924年11月神戸で行われた孫文の「大アジア主義演説」を日本人は見事に誤解する。孫文は中ソの協力を主張したにもかかわらず、玄洋社を中心とする日本人は日中友好と捉えたのだ。なぜそんな誤解が生まれるのであろうか?そしてこの誤解はこのまま「大東亜共栄圏」に発展していく様子が描かれている。三輪はそれを「大国となった日本の奢り」と指摘する。

さらに陸軍の皇道主義に発展する詳細が描かれ、日本の古典に再出発点を見つけたと三輪は結んでいるのだがこの皇道主義は、葦津珍彦が指摘してきたファナティックでショービニスティックな神道だったのではないだろうか?

yashinominews.hatenablog.com

 

後藤新平の大亜細亜主義(2)

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英国の香港統治を台湾統治に模倣した後藤新平は国際主義者のように思っていたが、下記の文を読むと強硬な”排他的”アジア主義である事がわかる。伊藤博文が反対した理由もわかる。後藤は蘭学を学んでいたが、同時に中国からも多くを学んでいたはずだ。というか日本の学問や思想の中心は中国のそれであったのではないだろうか? 

後藤の中国認識が興味深い。4600年の歴史の中で28、9回革命が、すなわち易姓革命があり、その指導者は南、北から入れ替わり立ち替わりだったが、アジア州の人で、欧州人の統治はなかった、と。アジア州の中でも争いがあったがそれを超えて今があり、その文化は欧米とは全く異なっており、欧米とは意思の乖離があり、それは争闘の原因にもなる、と。

しかし現実は、意思の乖離と争闘が日本と中国・韓国の間に起こったのではないだろうか?

 

以下、後藤新平「日本植民政策一班」付録「大亜細亜主義」を後藤新平記念館の学芸員の方達が書き起こし、漢字の説明をつけてくださいました。

 

およそアジアに国する者、その数鮮なからず、政体異同あり、人種宗教また岐異する所無きにあらず、しかれどもその大アジア主義におけるや、なおこれ日月に対し而して齊しくその光明を仰ぐごときのみ、中国黄帝より以来四千六百余年、革命二十八九次を累ぬ、その間政柄を執る者、時に南人有りまた北族あり、ついに未だアジア洲以外の人の入って而して国の鈎を秉る者あらず、是れ豈これを致す莫くして而して致す者ならんや、方今文化遂に進み、列国互いに競うて福利を増進し、武力を濫用して他の洲土を侵奪するものあるなし、然りといえども此れ長く恃むべからざるなり、優勝劣敗は天演通例、弱肉強食は古今一揆、何ぞ稍や自ら暇逸すべけんや、且つアジア諸邦の文化、欧美列国に遜ること遠し文化の懸隔は即ち意思の乖離なり、意思の乖離は即ち争闘の肇端なり、

 

異同…違っている点。

岐異…まちまち。

日月…太陽と月。また太陽のこと。

政柄…政権。

鈎…L型の物を引っ掛ける金具。深いところにあるものを引っ掛けるようにして取り出す。物事の道理を探る。

日本では、「はり」「釣り針」の意。

秉る…手に持つ。しっかりと持って守る。手に握った権力。

豈…「あに~(なら)んや」 どうして~であろうか(まさかそんなことはあるまい)

方今…いま。現在。

恃む…何かをあてにする。

天演…進化。 通例…慣例。

古今…昔から今にいたるまで。

一揆…揆は法則。道を同じくすること。

稍…だんだん。少しずつ。わずか。しばらく。

暇逸…暇で遊んでいる。

懸隔…へだたり。

乖離…違っていて合わない。

肇端…発端。

『日本・1945年の視点』三輪公忠著ー再読 3章 大正の青年と明治神宮の杜

三輪公忠氏はウィキを見ると国際政治学者とある。

『日本・1945年の視点』は多くの視点、多くの事件が書かれており学術論文といより雑文(雑な文章という意味ではない)随筆的な内容だ。

 

3章 大正の青年と明治神宮の杜

も面白いがあまりにも多くん情報が集まっている。最初に日本のファシズムとナチのアブノーマル性を議論した丸山真男を引用し、日本の特徴を描こうとしている。

次に平泉澄を引用し、天皇と結びつけて一般の、三輪氏はそう書いていないがプロレタリアートが暗殺者、狂信者になって行くことが書かれている。

3節「明治神宮の造営と大日本青年館」が、前回読んだ時強く印象に残った箇所だ。新渡戸が出てくる。ここで一君万民の平等思想が紹介される。平民が政治指導者になっていくのだ。3年以上かかった外苑工事には全国から5千人以上の青年が集まって、酷使され死者も出たという。しかしこの青年たちが連盟脱退から帰国した松岡洋右を全国津々浦々で熱狂的に迎えるのだ。昭和軍国主義の担い手となる青年プロレタリアート集結地「大日本青年館」が1921年に建設される。ここの初代理事長が近衛文麿だ。1931年には新渡戸を委員長に迎え、蠟山、後藤隆之介、東畑精一を委員とする、農村問題研究会が発足し、この青年館に事務局を置く。新渡戸が1933年カナダで帰らぬ人となったころ、この農村問題研究会が昭和研究会に化けるのである。

色々と書いてあるのだが、最後に近衛文麿のこと。

彼の父親篤麿はドイツ留学の帰途アジアを周り、西洋人から差別されているアジア人をみて、アジア人による東洋の建設、大アジア主義という思想をもった。その篤麿は文麿が12の時になくなり玄洋社の頭山たちが文麿とその兄弟の面倒を見る。ここで文麿は玄洋社の思想、イデオロギーにも触れるのであろう。玄洋社広田弘毅、壮士風ポーズを好む松岡洋右を登用したという。

玄洋社と新渡戸のつながりはまだ確認していない。ないかもしれない。しかし後藤新平玄洋社は深く繋がっている。しかし、後藤の思想やイデオロギー玄洋社のそれは全く違うような気がするのだ。後藤のは科学的であり、玄洋社は情念的。そんなイメージを持っている。

 

近衛文麿、蠟山、後藤隆之介 ー みんな新渡戸稲造の一高での教え子である。新渡戸は評価していなかったようだ。

後藤新平の大亜細亜主義(1)

テキスト ボックス: 極垠…極限。かぎり。はて。
畛域…範囲または境界。分別。
康楽…安らかに楽しむ。
涘…流れの止まる水際。
索居…ひとり寂しく暮らす。
洲土…その洲の地。 
民人…一般の人々。
機枢…物事の重要なところ。かなめ。
貪覬…むさぼり望む。
神権…神の権威。絶対王政の観念。
異同…違っている点。
岐異…まちまち。
日月…太陽と月。また太陽のこと。
政柄…政権。
鈎…L型の物を引っ掛ける金具。深いところにあるものを引っ掛けるようにして取り出す。物事の道理を探る。
日本では、「はり」「釣り針」の意。
秉る…手に持つ。しっかりと持って守る。手に握った権力。
豈…「あに~(なら)んや」
どうして~であろうか
(まさかそんなことはあるまい)
方今…いま。現在。

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水沢の後藤記念館とイケメン新平


インド太平洋構想のルーツに亜細亜主義があるのではと、ハウスホーファー玄洋社を読んでみたがよくわからなかった。後藤新平伊藤博文に広島の宮島で大亜細亜主義を語っているのは後藤の「厳島夜話」で知った。
何度か読んでいる後藤の「日本植民政策一班」の付録に4ページほどの「大亜細亜主義」があるのを最近知って、読んだが、漢字がわからず。
誰か現代語訳してませんか?と聞きまわったら、後藤の郷里、奥州水沢の後藤新平記念館の方がなんと整理してくださった。
ルビをふってくださっておりそのままこぴぺできなので、外した形で少しづつ紹介したい。
なお「日本植民政策一班」は大正3年に講演した内容を整理し、大正10年に拓植新報社から発行されている。本来であれば後藤を師と仰いだ李登輝研究者とかが専門的に取り上げる内容のはずだが、誰も、この文章の存在さえ知られていないようなので、この分野素人ではあるがご紹介したい。間違い、勘違い、思い違いは遠慮なくご指摘ください。なおエビデンスは必須です。エビデンスなき指摘はお断りします。
 
 「大亜細亜主義
人生の福祉は国土の能く井画する所にあらず、人種の能く極垠する所にあらず、文化畛域無く、康楽際涘無し、生れて大地に生じ、五洲に索居するもの、固より応さにこれを共同享受すべきなり、独り洲土の民人あり、唯当さにこれを保持すべし、而して以て諸れを他州人に譲るべからざる者は州土の機枢これなり、アジア洲はアジア洲人のアジア洲なり、アジア洲中の機枢はすべからくアジア州人に由てこれを主宰すべく、必ずアジア洲外の国をして貪覬する所あらしむべからず、是れ之を大アジア主義といい、実にアジア洲人万世不滅の神権となすなり、

極垠…極限。かぎり。はて。

畛域…範囲または境界。分別。

康楽…安らかに楽しむ。

涘…流れの止まる水際。

索居…ひとり寂しく暮らす。

洲土…その洲の地。 

民人…一般の人々。

機枢…物事の重要なところ。かなめ。

貪覬…むさぼり望む。

神権…神の権威。絶対王政の観念。

 

漢字の解説も後藤記念館のみなさんの作業です。難しい。解説なんかできない。

ただし次の箇所は後藤の植民政策をよく知ることができる箇所である。後藤は台湾統治に関して、英国の香港統治を模倣したのである。その香港統治とは現地の文化歴史人材を育てることである。(どこで読んだか忘れた。多分この植民政策一班だと思うが後で確認)

貪覬…アジア州以外の国がむさぼり望むことを後藤は断固否定していたのだ。しかしそれは排外的ではなかったはずだが、厳島夜話では伊藤公が西洋列強の感情を逆撫でするものと否定している。

アジア洲はアジア洲人のアジア洲なり、アジア洲中の機枢はすべからくアジア州人に由てこれを主宰すべく、必ずアジア洲外の国をして貪覬する所あらしむべからず、」