『日本-その問題と発展の諸局面』(7)

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新渡戸が絶賛する太子による国家統合の後は「奈良時代平安時代の文化」「輸入文化の衰退」と続く。

 

都(天皇の住居と行政官庁のあるところ)が頻繁に移動する理由を当方は疑問に思っていたが、「死が起きた場所は汚れているという俗信によるもので、官庁は新帝が即位前に住んでいたところに移ったのだった。」(75頁)とある。

しかし、公的権威の集中と、官吏の増大に伴い恒久的な場所が必要となる。恒久的建築物を造る技術は大陸の移民が提供してくれた。(75頁)

 

当時の日本の移民受け入れ政策も興味深い。

朝鮮が中国に統一された事で、日本の軍事的意図は不名誉な仕方で終わり、朝鮮王国の百済と高麗から数千人もの移民を東京を中心に受け入れた。新渡戸は言う。

「これら避難民は、文化では日本人よりずっと進んでいたから、日本文化に対するその貢献は、それに応じて大なるものがあった。」(75-76頁)

日本はこれら避難民に土地を無償で提供し、免税し、優遇した。変わりに豊かな文化を受け継いだ。融合した。

 

そして朝廷はいよいよ都を京都に移すのであるが、これが見事なばかりに中国の都そのまま。

外面だけなく、制度、儀式、礼式、衣冠、作法までも中国風。

これに対する反発は民衆からあった。

「大宮人は、国内に貧窮と不満の兆しがあるのに、それには目もくれず、外来の風習をもてあそび、偽りの生活を送っていた。民衆の魂そのものが外来文明の迷路にすっかり失われたかの観がした。」(79頁)

 

そして民族的本能がこれに応えるのである。「ひらがな」の誕生だ。